義彦は静かに目の前の海を眺めていた。
眩しいほどの満月の明かりが海を照らし海面に一筋の道を作り出している。
(あれは月への階段か? たしか天国へ続く階段とも言うんだったよな?)
義彦はその時電車の中で聞いた言葉を思い出す。
『あの世とこの世の境目が曖昧になる日』
という事はあの世にいる人はあの階段を下りて現世へ来るのだろうか?
そう考えると目の前の光景がとても神秘的に見える。
義彦はふと視線を波打ち際へ移すと、そこには美しいピンク色の貝殻がゆらゆらと波間に揺れている。
4~5センチくらいの貝殻はこれまで見た事のない種類だった。
珍しいなと思った義彦は波打ち際まで行きその貝殻を拾った。
その時人の気配がした。
義彦が顔を上げると若い女性が立っていた。
女性は白地に赤い花模様のノースリーブのワンピースを着ていた。
月明かりの逆光で女性の顔はよく見えない。しかしその雰囲気からはとても美しい女性だろうと想像出来た。
年の頃は20代半ばくらいだろうか? 娘のすみれよりも少し若いかもしれない。
その時女性が話しかけてきた。
「綺麗な満月ですね」
「はい、とても美しいです」
すると女性は義彦が手にしている花束を見て言った。
「素敵な花束……もしかして定年…ですか?
「はい、今日で無事会社勤めを終えました」
義彦は花束を少し持ち上げて微笑む。
「それはお疲れ様でした。長いお勤めの間、色々とご苦労があったでしょうね」
「はい、色々な事がありましたがそれも今は良い思い出です」
「ご家族は? 奥様もきっとお喜びでしょう?」
「いえ……妻は三年前に亡くなりました」
「そうでしたか…….」
「はい。これから一緒に余生を楽しもうと思っていた矢先に突然いなくなりました」
「それはお辛かったですね。もし奥様が今いらしたらどんなお言葉を?」
「そうですねぇ…やはり『長い間支えてくれてありがとう』でしょうか? ありきたりですが」
「いえ、そんな事ないですよ。シンプルな言葉は心に響きますから」
「____あとはすまなかったと謝りたいです」
「謝る? なぜ?」
「妻孝行をしないまま一人で逝かせてしまいましたから」
「お優しいんですね」
女性は優しい声で言うと波打ち際へ歩いて行く。そして白いサンダルが波に触れるくらいの位置に佇んでじっと月を見上げた。
月を見上げながらこう言った。
「でも、きっと奥様は感謝されていると思いますよ」
女性の声はとても優しくどこか懐かしいような響きだった。
「ありがとうございます。話を聞いていただけて少し心が落ち着きました。これから家に帰って仏壇の前で一杯やる事にします」
義彦が立ち上がって歩き出そうとするといきなり強い海風が吹いた。風と共に砂が舞い上がったので義彦は思わず目を瞑る。
漸く風が収まり義彦が目を開けると、そこに女性の姿はなかった。
義彦は慌てて周りを見回してみたが女性の姿はどこにもなかった。
風は10月にしては生暖かかった。なんともいえない不思議な風だ。
狐につままれたような気分のまま義彦は海を後にした。
真っ暗な家に帰ると留守番電話のランプが点滅していた。
義彦はすぐに再生ボタンを押す。
『お父さん? 定年退職おめでとう! 今までお疲れ様でした。明日はそっちに行ってみんなでお祝いするからそのつもりでね! 今日は飲み過ぎないようにしてよ。じゃあ明日ね』
電話は娘のすみれからだった。
すみれはさゆりとの間に生まれた一人娘で、今は結婚して夫の隆志(たかし)君、そして孫の隆之(たかゆき)と三人で近くに住んでいる。
明日はここに来て三人でお祝いをしてくれるようだ。
義彦は娘の気遣いが嬉しかった。
明日はきっとご馳走だから今日は焼き鳥で軽く済ませようと思い、義彦は焼き鳥を皿に移してビールと共に仏壇の前に持って来る。
もちろんビールは妻のさゆりの分も用意した。そして仏壇の傍らには今日会社でもらった花束を置く。
明日からは早起きをしなくていいのだと思うと夜更かしも出来る。
そう思った義彦は一本目のビールを飲み終えるともう一本ビールを冷蔵庫から持って来た。
二本目のビールを飲みながらふと思い出したようにリビングボードの扉を開ける。そしてそこから一冊のアルバムを取り出した。
義彦はソファーへ座りアルバムをめくっていった。そのアルバムは新婚時代の写真が貼ってあるアルバムだった。
(二人とも随分若いな…….)
義彦は目を細めながら懐かしそうに一枚一枚を見つめる。
アルバムの中には笑顔の妻の写真、少し照れたような義彦の写真、そして二人並んで撮った写真が溢れている。
それを見た義彦の目頭が段々と熱くなってくる。そして徐々に視界がぼやけていった。
(そうか……俺は泣いているのか…….)
義彦は手で涙を拭いながらアルバムをめくり続ける。
そして次のページをめくった瞬間義彦は思わず声を出した。
「あっ!」
なぜならそこには先ほど海で出逢った女性の姿が写っていたからだ。
妻が着ている白地に赤の花柄のワンピースは女性が着ていたものと同じだった。
髪型も妻と似ている。白いサンダルもほとんど同じものだった。
そこで義彦はハッとした。
さっきの女性は妻だったのだ。
あの女性は若い頃の妻さゆりの姿だったのだ。
そこで義彦は激しく泣き始めた。
妻は会いに来てくれた、義彦が定年退職の日に妻は義彦に会いに来てくれたのだ。
『あの世とこの世の境目が曖昧になる日』、妻のさゆりは満月に照らされた海の道を通ってはるばる夫に会いに来たのだ。
『満月の夜の不思議な遭遇』は本当にあったのだ。
そこで義彦は再び大声で泣き始める。嗚咽を漏らしながら声を出して泣き続けた。
その切ない泣き声は、いつまでもいつまでも家の中に響き渡っていた。
翌朝義彦はすっきり目覚めた。
昨晩は泣き疲れてそのまま眠ってしまったようだ。しかしなぜか気分はスッキリとしていた。
キッチンへ行くと昨日浜辺で拾った貝殻を置きっぱなしだった事に気付く。
記念すべき定年退職の日に拾ったピンク色の貝殻を、義彦は記念に持って来た。
義彦は貝殻を綺麗に石鹼で洗った後リビングボードに飾ろうと思いリビングへ行く。
そしてリビングボードの扉を開けて貝殻を置こうとした瞬間思わず叫んだ。
「あっ!」
そこには今義彦が手にしている貝殻と同じ貝殻が飾られていた。
棚に飾られている貝殻は義彦が拾った物よりも一回り小さい。
そこで義彦はハッとする。
(この貝殻は毎朝海を散歩していた君が拾ったものなんだね。そして僕は今日までこの貝殻がここにある事すら気付かずにいたんだ。それほど僕は仕事ばかりの毎日だったんだ……)
妻に対し申し訳ない気持ちになり義彦の目にまた涙が溢れてくる。
しかし義彦は涙をぐっとこらえると、妻が拾った貝殻の隣に昨夜拾った貝殻をそっと並べた。
そこに並んだ大小二つの貝殻は、まるで仲睦まじく寄り添う夫婦のように見えた。
コメント
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さゆりさんが月の階段を下りて会いに来てくれたんですね🌜️ 胸にじーんとくるお話です。
会えて良かったですね。 奥様の言葉に愛されていたのがわかります。 アルバムを見て、いろんな思い出が蘇りましたね😊
🌝の夜に現れる「天国へ続く階段」を、一段一段さゆりさんが降りて義彦さんの定年退職を労いに…😢 熟年夫婦の深い、深い愛…