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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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白いポストの売上が少しずつ戻り始めたころ、商店街の空気に妙なざらつきが混じった。通りの掲示板に、再開発案の説明会の紙が貼られている。差出人はマルフリズル。港側から古い建物をまとめて買い上げ、無人決済の新商業棟へ建て替える計画を進めている企業の実務責任者だった。
店に来た彼女は、白いジャケットを一切乱さず椅子へ座った。注文はコーヒーだけ。けれど視線はカップではなく、壁の亀裂や窓枠の歪みに向いている。
「味はいいですね」
そう言ってから、彼女はにこりと笑った。
「でも、古いものを抱えたままでは限界があります」
「限界を決めるのは、飲んでからにしてください」
イドゥレが返すと、マルフリズルは面白がるように肩をすくめた。
「では別の話を。ご主人、昔この町を離れていますよね」
その一言で、カウンターを拭いていたモリネロの手が止まった。
彼女が去ったあと、店には小さな棘が残った。モリネロは何も説明しない。イドゥレも問い詰めたくはない。だが外から答えを押しつけられるのは、もっと嫌だった。
嫌な予感は重なった。夕方にはハリクレイアが来て、「視聴者が知りたがってるの!」と機材を抱えて騒いだ。
「町を出た夫が戻ってきて電撃結婚、これ絶対裏に何かあるでしょ」
「ないです」
「ある顔してる!」
「その判定、雑すぎません?」
イドゥレが追い払っても、彼女は店の前で配信を続ける。商店街の奥では、再開発の噂まで混ざって勝手な物語が膨らんでいく。
そこへラウシャンが走り込み、買い取りの仮申込が今も生きていると知らせた。条件が整わなければ、商店街の一部とまとめて話が進むらしい。
「消えてなかったの?」
「消えてない。むしろ向こう、待ってる」
現実の方が噂よりずっと質が悪い。イドゥレの指先が冷たくなった。
夜、帳簿の前でイドゥレはついに口を開いた。
「昔、町を離れたんですか」
「はい」
「どうして」
モリネロは返事をしない。黙っている間に、火だけが小さく鳴る。
「言いたくないなら、そう言ってください」
「叔父の工房を継げなかった」
絞るような声だった。
「壊れた靴ばかり見るのが、息苦しかった時期があって。別の町へ逃げました」
「逃げた」
「そうです」
彼は自分で言い切った。
「戻ったときには叔父が倒れていて、白いポストの話も、建物の持分も、そのあと知りました」
イドゥレは動じないように努めた。だが胸の奥では、じりじりと何かが焦げている。逃げた人。大事な場所を離れた人。その印象だけが先に立つ。店を守ると署名した相手を、そこまで浅く見たくないのに。
「それ、もっと早く言えましたよね」
「聞かれなかったので」
「またそれですか」
思わず声が尖った。
「聞かれなくても言うことはあります」
「なら、どこまで言えば足りますか」
モリネロも初めて強い声を出した。
「過去を全部話せば安心しますか」
「安心するかどうかは、私が決めます」
「じゃあ、あなたはどうなんです。弱音を飲み込んで平気な顔をするのは説明に入らないんですか」
言われた瞬間、イドゥレは息を失った。
しんとした店に、二人の荒い呼吸だけが残る。怒鳴り合ったわけではない。けれど、今までで一番深くぶつかった。
そのとき、白いポストの投函口に紙が滑り込む音がした。見に行ったイドゥレは、入っていた手紙ではなく、扉の下に差し込まれた書類に気づく。買い取り仮申込の控え。期限付き。条件未達の場合、手続きは次へ進む。
店を失う具体的な日付が、初めて数字で迫ってきた。
恋の罠なんて甘い言葉では足りない。白いポストを囲む網は、思っていたよりずっと細かく、現実的だった。
そしてその網は、二人の間の沈黙にまで絡みつこうとしていた。