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於田縫紀
7
第2話 昭和喫茶巡り
喫茶店の窓は、町を少しやわらかく見せる。
磁馬は一軒目の喫茶店で、そう思った。
外では自転車が通り、買い物袋を持った人が歩き、商店街の看板が夕方前の光を受けていた。
けれど窓越しに見ると、
町は少しだけゆっくりになる。
音も遠くなる。
カップの触れる音。
スプーンが皿に当たる音。
新聞をめくる音。
奥で玉ねぎを炒める音。
磁馬は入口近くの席に座り、スケッチ帳を開いた。
店内には、茶色の椅子が並んでいた。
壁には古い時計。
カウンターの奥にはコーヒーの道具。
天井の扇風機が、ゆっくり回っている。
磁馬はまず、その扇風機を描いた。
回っているものは描きにくい。
でも、回っているものほど描きたくなる。
「ご注文は?」
声がして、磁馬は顔を上げた。
ベージュのエプロンをつけた女性が立っていた。
髪は肩の上で内側に巻かれ、手には小さな伝票がある。
磁馬は壁の品書きを見た。
文字は読める。
でも、少し迷う。
カレー。
トースト。
プリン。
ナポリタン。
「ナポリタン」
女性は少し嬉しそうにうなずいた。
「はい、ナポリタンですね」
「おいしい?」
「うちはおいしいです」
その言い方がまっすぐだったので、
磁馬は少し笑った。
「じゃあ、それ」
「お飲み物は?」
磁馬は少し悩んだ。
女性が言う。
「コーヒーがよく出ます」
「それも」
「はい」
女性は伝票を書き、
奥へ戻った。
磁馬は窓を描いた。
窓の向こうの町。
窓に映る店内。
カウンターの奥の湯気。
しばらくして、
ナポリタンが運ばれてきた。
丸い皿。
赤みのある麺。
ピーマン。
玉ねぎ。
薄く切ったソーセージ。
横に添えられた粉チーズ。
匂いが先に来た。
磁馬はしばらく見ていた。
「食べないんですか?」
女性が聞いた。
「描きたい」
「冷めますよ」
「食べる」
磁馬はフォークを持った。
一口食べる。
甘い。
酸っぱい。
少し焦げている。
麺はやわらかい。
磁馬は目を細めた。
「うまい」
女性は誇らしそうに笑った。
「でしょう」
「名前は?」
「早苗です」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「変わったお名前ですね」
「よく言われる」
早苗はカウンターへ戻った。
磁馬はナポリタンを食べ、
途中でまた描いた。
皿の上の減っていく麺。
フォークの跡。
湯気。
窓の外を通る人。
食べ物は、
なくなるのが早い。
だから磁馬は、
食べる前と、
食べている途中と、
食べ終わる前を描きたくなる。
皿が空になるころ、
隣の席から声がした。
「喫茶店を描いてるんですか」
短い髪の青年が、手帳を持ってこちらを見ていた。
茶色のジャケットを着ている。
「うん」
磁馬は答えた。
「ナポリタンも?」
「うん」
「いいですね。喫茶店のナポリタンは、店ごとに違うんです」
青年は少し身を乗り出した。
「ここは甘めで、麺がやわらかい。駅前の店はもっと炒めが強い。二丁目の店は具が大きい。三軒目のマスターは皿を温めて出すんです」
磁馬は目を丸くした。
「詳しい」
「修一です。喫茶店巡りが好きなんです」
「磁馬」
「じばさん」
修一は手帳を開いた。
そこには店の名前と、
メニューの感想がびっしり書かれていた。
「今日は何軒行く予定ですか」
「決めてない」
「じゃあ、巡りますか」
磁馬は少し考えた。
一軒だけで十分な気もした。
でも、
店ごとに違うナポリタン。
その言葉が、頭の中で湯気を立てた。
「行く」
修一は嬉しそうに立ち上がった。
早苗がカウンターから声をかけた。
「食べすぎないでくださいね」
磁馬はうなずいた。
「たぶん」
「たぶんは危ないです」
修一が笑った。
二軒目は、駅前の喫茶店だった。
入口のベルが、からんと鳴る。
一軒目より少し狭く、壁には映画のポスターが貼ってあった。
席の背もたれは深い茶色で、店の奥から強い炒めの匂いがした。
磁馬は窓際に座った。
「ナポリタン」
修一が迷わず注文する。
磁馬も続けた。
「ナポリタン」
店の主人は、
二人を見て少し笑った。
「二つね」
磁馬は鞄を確認した。
小銭袋。
ある。
スケッチ帳。
ある。
ペンケース。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
大丈夫。
二皿目のナポリタンは、
一軒目より濃かった。
麺のところどころに焦げ目があり、
香りが強い。
磁馬は一口食べた。
「うまい」
修一は手帳に書いた。
「炒め強め。香りよし」
磁馬はその横で、
皿を描いた。
二皿目のナポリタン。
一軒目とは違う湯気。
違う皿。
違う窓。
違う客。
絵の中では、
一軒目の皿と二軒目の皿が、
同じページに並んだ。
麺が少しずつ減り、
湯気が薄くなっていく。
修一がそれを見て言った。
「食べた時間まで描くんですね」
「うん」
「普通、完成した皿を描きません?」
「なくなるところも、ある」
修一は少し黙り、
手帳に何か書いた。
「なくなるところも、ある」
磁馬は三口目を食べた。
おいしい。
けれど、
少し腹が重くなってきた。
三軒目へ向かう時、
磁馬の歩く速度は少し遅くなった。
修一が振り返る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは危ないです」
さっきの早苗と同じことを言われ、
磁馬は少し笑った。
三軒目は、路地の奥にあった。
店先に小さな植木鉢が並び、
入口の横に手書きの品書きが置かれている。
中へ入ると、
古いレコードの音が流れていた。
店の主人は無口だった。
でもナポリタンを頼むと、少しだけうなずいた。
三皿目。
皿は温かかった。
麺はもちっとして、
具が大きい。
ピーマンの香りが強い。
磁馬は一口食べた。
「うまい」
声は少し小さかった。
修一が心配そうに見る。
「無理しなくても」
「描くために食べる」
「食べるために描くのでは?」
磁馬は少し考えた。
「どっちも」
修一は笑った。
磁馬は描いた。
三軒目のナポリタン。
レコードの音。
温かい皿。
主人の静かな手。
ページの中で、
三つの喫茶店が少しずつつながっていく。
一軒目の窓。
二軒目の映画ポスター。
三軒目のレコード。
それぞれの皿の湯気が、
細い線になって混ざる。
磁馬はその絵を見て、
満足そうにうなずいた。
その時、
鞄の横に入れていた小銭袋が、
椅子の下へ落ちた。
小さな音。
ころ。
磁馬の顔が止まる。
修一もすぐ気づいた。
「落ちました」
「落ちた」
磁馬は椅子の下をのぞく。
小銭袋は見える。
けれど、椅子の脚と壁の間に挟まっていた。
磁馬は手を伸ばす。
届かない。
修一が席を少し動かそうとする。
店の主人が近づいてきた。
「どうした」
「小銭袋が」
主人は黙って椅子を持ち上げた。
修一がすぐに袋を取る。
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
主人はうなずいた。
「大事なもんか」
「うん」
「なら、もっと奥へしまっときな」
「そうする」
磁馬は小銭袋を鞄の奥へ入れた。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
修一は手帳を閉じた。
「今日は三軒で終わりにしましょう」
磁馬は少しだけ考えた。
「まだ行ける」
「お腹が?」
磁馬は黙った。
修一は笑った。
「やめましょう」
でも帰り道、
四軒目の看板が見えた。
小さな喫茶店。
店先に、ナポリタンあります、と書かれている。
磁馬は立ち止まった。
修一も立ち止まった。
二人で看板を見た。
「見るだけ」
磁馬が言った。
「見るだけですね」
修一が言った。
二人は中に入った。
四軒目のナポリタンは、
半分ずつ分けた。
磁馬はそれでも苦しそうだった。
でも、
一口食べると目が少し細くなる。
「うまい」
修一は笑いながら手帳に書いた。
「四軒目、分けても重い」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
四軒分の喫茶店が、
一枚の絵に並んでいた。
窓。
カウンター。
レコード。
映画ポスター。
植木鉢。
皿。
フォーク。
湯気。
減っていく麺。
絵の中で、
皿のナポリタンだけが少しずつ減っていく。
一軒目。
二軒目。
三軒目。
四軒目。
湯気が立ち、
麺が減り、
皿が空に近づく。
修一がそれを見て、
目を丸くした。
「食べてるみたいに動いてます」
「食べたから」
「でも絵です」
「うん」
磁馬は最後に、
四軒目の窓から見える夕方を描いた。
喫茶店巡りは、
いつのまにか夕方まで続いていた。
腹は重い。
足も少し重い。
でも、
スケッチ帳はいい重さになっていた。
外へ出ると、
商店街の灯りが点き始めていた。
修一は手帳を胸にしまった。
「今日はいい巡りでした」
「うん」
「でも、次からは二軒までにしたほうがいいです」
「たぶん」
「絶対です」
磁馬は少し困った顔をした。
そこへ、
一軒目の早苗が店の前に出ているのが見えた。
買い物帰りらしく、
手には紙袋を持っている。
「あら、本当に巡ったんですね」
修一が言った。
「四軒行きました」
早苗は磁馬を見た。
「食べすぎです」
磁馬は小さくうなずいた。
「うん」
「歩けますか」
「歩ける」
「たぶん?」
「……歩ける」
早苗は笑った。
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚は早苗へ。
一軒目の喫茶店。
ナポリタンを運ぶ早苗。
窓の向こうの町。
皿から上がる湯気。
もう一枚は修一へ。
手帳を持って喫茶店を巡る姿。
四軒の看板。
並んだナポリタンの皿。
二人はそれを受け取った。
早苗の絵の中では、
ナポリタンの湯気がほんの少し揺れていた。
修一の絵では、
四軒の看板が夕方の光の中で少しずつ色を変えていた。
修一は絵を見つめた。
「これ、今日そのものですね」
磁馬はうなずいた。
「うん」
早苗は少し笑った。
「次に来た時は、ナポリタンひと皿にしてください」
「うん」
「本当に」
「たぶん」
早苗と修一が同時にため息をついた。
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
旅費袋。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
腹は重い。
でも、落とし物はない。
夕方の商店街を歩くと、
どこかの喫茶店からまたコーヒーの匂いがした。
磁馬は少し立ち止まりかけた。
修一がすばやく言った。
「今日はもう終わりです」
磁馬は素直にうなずいた。
「うん」
スケッチ帳の中では、
昭和の喫茶店が四軒、
ゆっくり時間を進めていた。
ナポリタンの湯気が上がる。
フォークが入る。
麺が減る。
皿が空に近づく。
窓の外が夕方になる。
磁馬は鞄を抱え、
腹を少しさすりながら歩いた。
寄り道は楽しい。
でも、
寄り道にも限度がある。
そう思った。
たぶん。
コメント
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うわあ、もうほんとに素敵な話でした……🥀💭 磁馬さんが「なくなるところも、ある」って言うの、すごくわかる気がしました。食べる前に描いて、食べてる途中も描いて、減っていく麺まで残すって、その一瞬一瞬をちゃんと見てるからできることですよね。それに、修一さんが「食べるために描くのでは?」って返すところも好きです。二人の会話が優しくて、ゆっくり流れてる時間そのものみたいでした。 四軒目のナポリタン、半分こしたのも可愛いし、最後に「たぶん」って言いながらも歩いてく磁馬さんが、すごく人間っぽくて愛おしかったです。一話完結のエピソードとしてすごく綺麗にまとまってたし、磁馬さんのことがもっと知りたくなりました。 いつも丁寧な描写と温かい空気感をありがとうございます🌙 次の話も静かに読みにきますね。