影の中でうずくまったまま、遥は息を整えた。夜風に髪が揺れ、冷たい肌に刺さる。存在しないかのように振る舞おうとしても、隣にある温度が否応なく気づかせる。
「……なんで、いるんだ」
小さく漏れた声に、自分でも驚いた。怒りでも泣きたいでもなく、ただ戸惑いだけが混ざった声だった。
日下部は動かず、影から漏れる微かな音に耳を澄ませる。
「……来ちまった」
そうつぶやく。別に慰めるつもりも、諭すつもりもない。ただここにいるだけだ。
でも、それだけで胸が締めつけられる。
自分を拒絶するはずの遥の側に、静かにいるということの重み。
遥は膝を抱えたまま、視線をそらす。
本当は、手を伸ばしてほしい。抱きしめてほしい。
でも、そんな欲望は言葉に出せない。
「ああ……やっぱり、俺なんか……」
つぶやきは夜に溶けて、誰にも届かない。
日下部が隣にいるのに、届かない。
その距離が、胸に痛いほど突き刺さる。
日下部は視線を落とし、やさしい口調で言う。
「俺は、ここにいる」
簡単な言葉だ。なのに、遥にはまるで重りのように響いた。
「……いても……意味ねえんだろ……」
否定の言葉が口をつく。
でもその声には、わずかに震えが混ざっていた。自分でも気づかないほど微かな希望の痕跡。
日下部は少し息を吐く。
「意味はあるさ……おまえがどう思おうと、俺はここにいる」
怒りでも諦めでもない。静かに、確かに、そこにいる。
その存在が、遥の胸に小さな波紋を生む。
「……誰も……信じられねえって、思ってたのに……」
つい本音が漏れる。夜風に消えそうな、だけど確かな言葉。
遥はそのまま小さく揺れる。
体をこわばらせながらも、少しずつ肩の力が抜ける瞬間があった。
日下部の手はまだ触れない。触れるでもなく、ただ隣にいる。
でも、その距離だけで、胸の奥に隠していた孤独と自己否定が、ほんのわずか、柔らかくほどけ始める。
「……ふざけんなよ、俺……」
小声でつぶやく。
自分を責める声と同時に、胸の奥で小さな問いが芽生える。
『こいつは、俺を……本当に置いていかないのか?』
その問いに答えを出す勇気はまだない。
ただ、隣にいるだけで、確かに少し、心が揺れている。
日下部はその変化を見逃さない。
焦らず、言葉を置かず、ただそこにいる。
怒るでもなく、求めるでもなく、ただ存在する。
その静かな圧力が、遥の中でゆっくりと作用する。
「……バカみたいに、安心したくなるんだな、俺……」
小さく笑うように、でも声が震える。
一歩も動けない、でも、確かに感じる温度。
その夜、路地裏で二人は言葉少なに、しかし確かな距離感で向き合っていた。
過去の壊れた時間、自己破壊的行為、裏切りと拒絶……すべてがまだ影を落とす中で、わずかに心が揺れる瞬間。
日下部はその揺れを、そっと受け止める。