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唯の家まで向う道のり、彼女が必死に俺に話し掛けてくる。でも、『どこかでお会いしたことありませんでしたか?』と言う言葉が出てくる気配がまるで無い。声も、顔も…… 全く覚えてもらえていなかったんだと思うと、寂しい気持ちになってきた。
(俺はどうでもいい存在だったんだ、客の1人でしかなかったんだな)
——と。唯の記憶に残るには、どうしたらいいんだろうか。
十分程度の帰路は意外にも俺の家から近く、こんな側に住んでいたのかと驚いた。空白の期間が四年もあって、一度も偶然道端で会わなかったのが不思議なくらいのご近所だった。
(古めのアパートだが、女性専用らしから安全面の心配は不要か)
家も覚えたし、まぁ機会があればまた会えるよなと思いながら帰ろうとすると、必死に呼び止められた。
「あのっ!よかったら、ウチで紅茶でも飲んで行きませんか?私、紅茶を集めていて、結構美味しいのとかあるんです。煎れるのもそこそこ上手いんですよ?」
頬を染めながらそう言われれば、断る気になどなれない。唯の方から誘ってもらえるのなら応じよう。
「俺はいいけど、こんな時間にいいのか?」
「はい!是非ともお礼がしたいので」
尋ねる俺に、唯の満面の笑みが返ってきた。
…… 夜に、『ウチでコーヒーでも』と言う言葉は誘っている場合があると聞くが、紅茶の場合はどうなんだ?しかも、頬は赤くともすごく無邪気な顔で言われてしまったので、『これは夜のお誘いだな』と勘違い出来る余地も無い。
「女性の入居者しかダメってだけで、男性のお客さんも禁止って訳じゃないんです。なので、気軽に遊びに来てくださって結構ですからね」
ニコニコ笑いながら鞄から鍵を出し、部屋のドアを開ける。『遊びに来い』と言われても、正直困った。俺とは初対面だと思い込んでいるっぽいのに、随分と懐っこい事に不安を感じる。そして、少しの苛立ちも。
(…… お前は、誰にでもそうなのか?)
どうしたって、そんなふうに考えてしまった。
「狭くてすみません、そこへどうぞ。ゆっくりしていって下さいね」
ローテーブルの辺りを指差し、そこへ座っていて欲しいと案内された。
「もうここは長いのか?」
座りながら、失礼にならない程度に部屋を見渡す。家具は少なく、贅沢をしている様子はない。本とかはあまりないから読書の趣味は無いようだ。ぬいぐるみが他の物と比べると大目にある気がするから、可愛い物が割と好きなタイプなんだろう。
「ええ、大学入る為にこっちに来てからずっと。職場からは少し遠いけど、引っ越しって結構お金飛びますからね。追い出されない限り、まだまだここに住んでると思います。——あ、今お湯沸かしますね」
狭い台所に立ち、ヤカンにペットボトルに入った水を移す。警戒心皆無の後ろ姿に、不安しか湧いてこない。
「その、あんまり知らない男を簡単に部屋に入れない方がいいぞ?」
「嫌だな、そんな事しませんよ」
笑いながら言われた。全く、全然説得力がない。現に今入れてるじゃないか。
ティーポットとカップをローテーブルに置き、彼女が紅茶の缶も何個か持って来た。
「お好きなのどうぞ。どれが好きですか?」
「すまない、紅茶はよくわからないんだ」
「あれ、あまり飲まれない?」
「コーヒーが多いかな、仕事柄」
「お仕事は何をされてるんですか?」
どれにしようかと、缶を見ながら唯が訊く。
「警視庁に勤務してる」
そう言った途端、瞳をこれでもかってくらいに大きく開いた顔で、唯が俺を見てきた。
「うわぁぁぁ!刑事さんなんですか?」
過剰なテンションに、正直少し引いた。壁が薄かったら隣から苦情がきそうな音量だが、大丈夫だろうか?
「ああ」
「すごい!私結構好きなんですよ、警察モノのドラマとか映画とか」
淹れる茶葉が決まったようで、ポットの蓋を開けて紅茶の葉を入れながら興奮気味にそう教えてくれる。
「あんなに派手じゃないぞ。もっと地道な作業の繰り返しだ。名探偵もいなければ、嫌われ者の敏腕刑事もいないからな」
「それでも、皆を守ってくれる存在でしょ?それだけでもうカッコイイなって思います。まるでヒーローみたいですよね、戦隊モノとかライダーとかみたいな」
「…… そうか?褒め過ぎだろう。でも、そう言ってくれるなら嬉しいな。嫌われやすいからな、警察って仕事は」
「あはは!つい違反しちゃう人はそうでしょうね。でも私、これでもゴールド免許持ってるくらいちゃんと規則は守ってるんですよ?斜め横断もしないし、万引きだってもちろんしません!優良な一般市民やってます」
「いやいや。ゴールド免許なんて、運が良ければ誰でももらえるぞ?」
「うわ、ハッキリ言われた!」
昔と変わらず、気さくな奴のままで簡単に会話が続く。話していてすごく楽だ。自然に言葉が出てくる。
なんだかんだと一時間程は話しただろうか。さすがに帰ってシャワーを浴びたりしないと明日に差し支える。そう思った俺は「ごめん、もう帰らないと」と言った。
「あー…… そうですよね」
残念そうな声で唯が言う。そう感じてくれるくらいには楽しんでくれたようで、安心した。
「あの、よかったら名前とか教えてもらえませんか?」
(今更か?これだけ話していたのに)
苦笑してしまったが、正直嬉しかった。
「失礼、そういうのは最初に教えるべきだったな。日向司だ」
「私は皆川唯っていいます。これ電話番号なんですが、良かったらもらってもらえませんか?」
鞄からメモ帳を取り出し、電話番号とメールアドレスを書いて俺にそれを差し出してきた。
(名前なんてとっくに知ってる、だってあんなに店で話してたんだから。自分からつい名乗る事を忘れていたのもそのせいだったし)
——でも、そう言うのは癪だった。
唯の連絡先は欲しかったので、メモを黙ったまま受け取る。それをスマホに登録し、自分の連絡先も教えた。
「やった!連絡先ゲット出来たっ」
楽しそうに笑う唯を見てると、帰るのがイヤになる。このまま一緒に居られたらどんなに楽しいだろうか。そう思う気持ちをぐっと堪えて、俺はこの後すぐに彼女の部屋を出た。
——それからというもの、電話は気が引けるのか気を使ってくれているのか、どちらかわからないがメールが沢山届くようになった。近況だったり、『今度また会えないか』といった内容のメールだ。どうやら今回は流石に、俺の事を記憶してもらえたようだ。…… その事が、たまらなく嬉しかった。
この頃は運良く割と時間が取れる事が多かったので、互いの仕事帰りに一緒に食事したり、休みが合った日は水族館などにも行ったりするようになった。それがまるでデートでもしているようで、正直毎回楽しみでならなかった。
家に行き来する事も増え、再会してから一ヶ月くらいした頃——
「付き合ってもらえませんか?」
裏返った声で唯に言われた。
可愛いと思っているし、一緒に居て楽しい。俺は唯の事が好きなんだろうなと気付き始めていたので、本音を言えば俺から告げたかった。だが、先を越されてしまった事はもうこの状況では諦めるしかない。——でも、だ。
「俺と君とでは、かなり歳の差あるが本当にいいのか?」
「関係ありませんよ!男は三十台からって言うじゃないですか」
握り拳を作り、何故そうなのかの唯が持論を熱弁しだす。
(…… 面白い奴だよ、まったく)
相変わらず、俺とは四年前にもバイト先で会っていた事は思い出してもいないようだが、それはもう諦める事にした。
「俺で、良かったら」
この日を界に、俺達は正式に付き合う事になった。