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第7話 きらめき
朝の控室には、まだ誰の体温も馴染んでいない椅子の冷たさが残っていた。
壁際に並んだ細い鏡。
低い机。
紙コップの束。
端に置かれた、小さな保湿器のかすかな音。
イオルは扉に近い席へ腰を下ろし、膝の上に置いた台本の角を親指で何度もなぞっていた。
紙は薄い。
薄いのに、今朝はそれが妙に重かった。
初出演。
その四文字だけで、喉の奥が起きた時から落ち着かない。
熱がある。
いつもの、あの熱だ。
人の視線が少し寄る時の熱。
言葉が耳の近くへ滑っていく時の熱。
それが今日は、喉だけではなく胸の内側までうっすら広がっていた。
鏡の中の自分を見る。
人の体に、ウーパールーパーの頭。
丸くひらいた外鰓は、整えても派手にはならない。やわらかな質感の肌。大きな目はどうしても眠たげに見えやすく、口元は何も考えていなくても少しだけ穏やかに見える形をしている。髪の代わりに頭頂から後ろへ流れる短いなめらかな線は、整髪料を入れても主張しない。
衣装は生活情報番組向けに整えられていた。
灰色寄りの細い上着。
中はモカ色のやわらかいシャツ。
袖口はすっきりして、立った時に肩が重く見えないよう直されている。
売場からそのまま出てきたような自然さで、売場より少しだけ画面に残る形。
その中途半端さが、今日はありがたかった。
派手な格好をさせられたら、それだけで自分が棚から落ちてしまいそうな気がする。
「似合ってる」
声がして振り向く。
ミナセではない。
ここにいるはずもない。
扉のところに立っていたのは、スタイリストのキリエだった。
狐頭の女。
頬の線が細く、目尻の上がり方が静かに鋭い。淡い茶色の長い上着の下に、身体の線を拾いすぎない緑寄りの服を着ている。指が長く、布に触る時だけ動きがとてもやわらかい。
キリエは近づくと、イオルの襟元を指先で少しだけ直した。
「売場の人で終わらない感じがある」
「褒めてますか」
「衣装の話」
「なら、ありがとうございます」
「顔にも少し出てる」
そう言って、キリエは口元だけで笑う。
「緊張してると、外鰓の先が少し開くんだね」
「そうなんですか」
「いま、少しだけ」
「閉じたほうがいいですか」
「いいえ。そのままのほうが、今日の番組には合う」
そのまま。
何度も言われてきた言葉だ。
うまく見せようとしない。
作りすぎない。
そのままの時に前へ出る。
でも今日は、そのままでいることがいちばん難しい。
台本を見下ろす。
今日は二本撮りのうち、前半の生活特集に短く出るだけだ。
内容は、朝の支度を少し楽にする小物紹介。
生活に役立つ、地味で使いやすい物たち。
それを棚から持ち上げ、試し、短く言葉を添える。
大きな芝居ではない。
長い台詞でもない。
なのに、控室の空気は、売場の通路よりずっと薄く、少しの呼吸の乱れまで浮きやすかった。
端末が震える。
フミからだった。
『生きてる?』
イオルは少しだけ笑った。
『いまのところ』
すぐに返る。
『死ぬのは放送後にして』
『縁起でもないです』
『立ち方だけ忘れなければ平気』
立ち方。
またそれだと思いながら、イオルは画面を閉じた。
その直後、もう一通。
ミナセから。
『きょう絶対見る』
その短さが、逆に重かった。
見る。
知られている。
売場の誰かが、店の端末か自宅の画面で、自分を見る。
生活情報番組の中で、棚の向こうではなく、ちゃんと出演者のひとりとして立っている自分を見る。
喉の奥の熱が少し強くなる。
扉が開き、制作進行の若いメダカ頭の男が顔を出した。
髪は短く、首から入館証を下げ、細い腕の端末を叩きながら慌ただしく目線だけこちらへ向ける。
「イオルさん、五分でスタジオ入ります」
「はい」
「軽く声、出しておいてください」
「はい」
「緊張しててもいいですけど、固まると照明が拾います」
「照明」
「顔じゃなくて、空気が」
男はそれだけ言って去っていく。
空気が拾われる。
この場所では、そんなことまで起きるのかと思った。
キリエが鏡越しにうなずく。
「拾われるよ」
「空気がですか」
「画面ってそういうとこあるから」
「困りますね」
「困るぐらいが、たぶん今日のあなたにはいい」
また、困るほう。
その言い方をする人が増えた。
イオルは立ち上がる。
鏡の前で、肩を落とし、顎を少し引く。
「おはようございます」
小さく言う。
自分の声が控室の乾いた壁に当たって、少しやわらかく返る。
「本日は、朝の支度を」
少し違う。
まだ固い。
「これ、使いやすいです」
今度は少し近い。
その時、喉の奥の熱が細く前へ伸びた。
ただの控室なのに、鏡の中の自分がほんの一瞬だけ、売場で枕を持っていた時の輪郭になる。
イオルは目を瞬かせた。
キリエが後ろで言う。
「いまの」
「出ましたか」
「少し」
それ以上は言わない。
言われないほうが、ありがたい。
スタジオは思っていたより広く、思っていたより近かった。
広いのは天井だ。
高く組まれた照明。
吊られた反射板。
人の背よりずっと高い位置から降りてくる熱。
近いのは床だ。
カメラ。
小さな台。
進行用のモニター。
椅子。
商品棚。
全部が、手を伸ばせば届きそうな距離に並んでいる。
生活情報番組の朝セット。
淡い茶色の棚。
やわらかな緑の差し色が入った小物。
朝の部屋を模した壁面。
窓の向こうには作り物の光。
落ち着いた色で整えられているのに、実際の生活より少しだけきれいで、少しだけ息が詰まる。
中央には司会の二人がいた。
ダックスフンド頭の男。
テレビで何度か見た顔だ。
足は短いが、立ち姿の重心が低くてぶれない。短めの茶色のジャケットに、襟元を軽く開けた服。笑う時、口元より先に目元がやわらぐ。
隣はメダカ頭の女。
頬の線が小さく整い、明るいのにうるさくない声を出す人だと、立っているだけでわかる。やわらかな灰色の上着に、内側だけ少し緑を差した服。手の動きがきれいで、カメラの前にいることへ慣れきっている。
その少し外側に、リクヤもいた。
同じウーパールーパー頭。
肩までの長さの髪を後ろで束ね、茶色のやわらかなジャケットをさらりと着ている。外鰓は短めに整えられ、輪郭は今日も軽い。何もしていなくても、そこにいるだけで場面に収まりが出る。
イオルはその姿を見た瞬間、胸の内側が少しだけ硬くなった。
同じ種。
同じ画面。
同じ空間。
少し前まで、広告の中の顔だった人が、今日は数歩先にいる。
リクヤが先にこちらへ気づき、軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
「眠れてない顔」
「そんなにですか」
「少し」
リクヤは笑った。
「でも、今日はそれでいいかも」
「そればっかり言われます」
「たぶん、そういう日」
司会のダックスフンド頭の男もこちらへ寄ってきた。
近くで見ると、画面より少しだけ疲れが見える。けれど、それがむしろ親しみやすさになっていた。
「初めまして、だよね」
「はい」
「きょう一緒に朝の小物紹介やるから、よろしく」
「よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくて大丈夫」
「はい」
「大丈夫じゃない顔してるけど」
周囲が小さく笑う。
その笑いが責めていないのに、イオルの喉は少し乾く。
メダカ頭の女司会が、手に持った台本を軽く揺らした。
「最初は棚の奥から入って、二つ目の小物でひとこと。短いので、気楽に」
「はい」
「そのあと、使ってみた感想を一言」
「はい」
「その一言で人が止まると、だいぶ楽」
「止まる」
「止まるでしょ、あなた」
メダカ頭の女は、さらっと言った。
知っている人の言い方だった。
見つけられている側へ向ける、あの静かな言い方。
スタッフが集まり、位置確認が始まる。
床の印。
目線の高さ。
商品の持ち方。
棚から取る時の角度。
イオルは言われるまま動いた。
足を置く。
棚へ手を伸ばす。
笑いすぎない。
止まりすぎない。
司会の言葉にかぶせない。
やることは多いのに、一つ一つは小さい。
その小ささの積み重なりで、画面の朝ができる。
一度目のリハーサル。
イオルは失敗した。
棚から取るタイミングが少し遅れ、司会の言葉にひっかかる。持ち上げた小物の向きが悪く、ラベルが半分しか見えない。ひとことも、喉の熱が出る前に終わってしまった。
「はい、いったん止めます」
進行の声。
照明はそのまま。
イオルだけが少しだけ冷える。
ダックスフンド頭の司会がすぐに寄ってきた。
「大丈夫。初回はそんなもん」
「すみません」
「謝るともっと硬くなるから」
「はい」
「棚じゃなくて、人に渡す感じで持つといいかも」
人に渡す感じ。
その言葉を頭に置く。
リクヤが横から小さく言った。
「棚の向こうに、誰かいると思って」
「誰か」
「朝、急いでる人」
「……」
「その人へ渡すなら、少し変わるでしょ」
イオルはうなずいた。
その言い方は、役へ入る時に近い。
誰かがいる。
その人へ向かう。
自分を見せるのではなく、その人へ物を渡す。
二度目のリハーサル。
棚へ手を伸ばす。
ラベルの位置。
持つ角度。
司会の言葉が来る。
イオルは小物を持ち上げた。
「これ、朝に急いでても扱いやすいです」
その瞬間、スタジオの空気が少しだけ寄った。
小さい。
でも、確かに寄る。
スタッフの動きが半拍だけ止まり、司会のダックスフンド頭の男が目だけでこちらを見る。メダカ頭の女の手元がきれいに止まる。モニターの向こうにいた誰かが、顔を上げたのが見える。
喉の熱が細く伸びる。
気づいた瞬間、それを追いかけたくなる。
だが追うと消える。
イオルはそれ以上考えず、小物を司会へ手渡した。
「はい、いい」
進行の声。
今度は止められない。
そのまま最後まで流れる。
終わったあと、スタジオの隅で鳥頭の女が腕を組まずに立っていた。
以前、読み合わせの部屋で会った人だ。
今日は濃い茶色の細い服に、首元だけやわらかな布を足している。鋭い目元は変わらない。けれど、カメラの外にいるぶん少しだけ影が薄い。
彼女はイオルが視線を向けると、小さくうなずいた。
いい、ではない。
もっと具体的な、確認のうなずき。
イオルの胸の内側で、何かが小さく返る。
本番は昼前に始まった。
照明がわずかに変わる。
音声の確認。
五秒前。
三秒前。
スタジオの空気が、ただの準備の空気から、本番の薄い膜へ切り替わる。
司会の二人が笑う。
カメラが滑る。
朝の軽い会話。
棚。
紹介。
小物。
流れは知っている。
知っているのに、五秒前のあいだから喉の奥が急に熱くなる。
それは緊張の熱と似ている。
でも少し違う。
前へ出る準備の熱。
そして今日は、それだけではなかった。
司会のダックスフンド頭の男が、軽くこちらへ振る。
「ここで、実際に使ってみた人の声も聞いてみましょうか」
イオルの番だ。
足を半歩。
棚へ手を伸ばす。
手の中に小物の重さ。
カメラの黒い目。
その向こうに、誰かがいる。
朝、支度をしながら片手で画面を見ている誰か。
通勤前にパンをかじりながら、流しっぱなしで耳だけ向けている誰か。
店の休憩室で、たまたま視線を上げる誰か。
その人たちへ、渡す。
「これ、急いでる朝でも手が止まりにくいです」
言葉が出た瞬間。
きらめいた、と思った。
光るわけではない。
照明が変わるわけでもない。
でも、自分の言葉の表面に、ごく薄い反射が乗る。
喉の熱が一気に前へ伸び、視線の集まり方が変わる。
ただ聞かれるのではない。
見られる。
持っている小物ごと、立っている自分ごと、なぜか一度こちらへ向く。
司会の二人の顔が、ほんの少しだけこちらへ傾く。
カメラの向こうで、誰かの体が止まるのがわかる気がした。
イオルは続きを言う。
「朝って、ほんの少し面倒だと、それだけで置いてしまうことがあるので」
言いながら、自分の顔をほとんど意識していなかった。
誰かの朝へ向かっている。
その方向だけがはっきりしている。
「そういう時に、これぐらい軽いと残りやすいです」
終わる。
ほんの二言、三言。
それだけなのに、空気が遅れて戻ってくる。
司会のメダカ頭の女が、いつもより少し深くうなずいた。
ダックスフンド頭の男が、自然なまま少しだけ笑う。
本番は止まらない。
そのまま流れる。
別の小物。
別のやり取り。
でもイオルの中では、さっきの一瞬だけが、まだ光の粉みたいに残っていた。
二つ目の場面は、実際に試す短い実演だった。
椅子へ座る。
鏡の前の設定。
朝の支度。
司会の言葉に合わせ、小さな手鏡を持つ。
その手元も撮られる。
角度を間違えれば終わる。
なのに、さっきのきらめきの余熱が残っていて、手まで少し軽い。
「どうですか?」
司会が振る。
イオルは鏡の中の自分を見る。
そこには、朝に弱そうなウーパールーパーの顔がある。
でも今日は、その顔が少しだけ違う。
画面の向こうの誰かに見せるための顔ではなく、画面の向こうの誰かへ届く途中の顔。
「これだと、朝いちばんでも嫌になりにくいです」
また、寄る。
今度は喉だけではない。
立っている時と同じように、存在ごと少し前へ出る。
鳥頭の女がスタジオの隅で動かなくなる。
リクヤが、台本を持つ手を止める。
メダカ頭の女司会の目元が、ほんの少しだけ笑う。
きらめき。
自分でそう呼びたくなるものが、確かにある。
大きな爆発ではない。
眩しさでもない。
薄く細いのに、人の目の端へ残る反射みたいなもの。
それが喉から、肩から、目線から、ひとつに繋がって前へ出る。
本番はそのまま最後まで流れた。
笑いどころ。
小さな実演。
短いまとめ。
エンディング前の軽い会話。
イオルは途中で、何度か自分がどこに立っているのか忘れかけた。
スタジオであり、朝の部屋であり、画面の向こうの誰かの食卓でもある。
そのどこにいても、今日は不思議と足が沈まなかった。
終わった、の声がかかった時、最初に戻ってきたのは膝の重さだった。
一気に現実が乗る。
照明の熱。
喉の乾き。
手の中の汗。
司会の笑顔が、出演用の顔から少しだけ素の疲れを混ぜる。
スタッフが散る。
音声が外れる。
空気が緩む。
それでもイオルだけは、しばらくその場から動けなかった。
ダックスフンド頭の司会が先に寄ってきた。
「いまの、初出演だよね」
「はい」
「嘘でしょ」
「ほんとです」
「途中から急に光ったね」
「光った」
「そういう言い方したくなる」
メダカ頭の女司会も近づいてくる。
「変な残り方する」
「残り方」
「喋り終わったあとも、ちょっと見ちゃう」
それは、前にも言われた。
人を止める。
見られる側に寄る。
でも今日は、それだけではない。
鳥頭の女が少し遅れて来た。
鋭い目元のまま、イオルの前に立つ。
「いま、どこまで自覚ありました」
「途中から、あまり」
「そう」
「何か、変でしたか」
「最大でした」
その一言で、喉の奥の熱が少しだけ震えた。
最大。
彼女は続ける。
「喉で引いて、立ち姿で残して、役の体に少し寄る」
「……」
「今日の短い枠だと、それが全部ちょうどよく混ざった」
「混ざった」
「珍しいくらい、きれいに」
きれいに。
その言葉は、これまでのどの評価よりも深く残った。
売場で終わる感じ。
便利な顔。
生活感。
そういう言葉の反対側にあるみたいだった。
リクヤが少し離れた位置から笑う。
「よかったね」
「よかったんでしょうか」
「いまの顔は、よかった時の顔」
イオルは自分の頬に触れたくなった。
触れない。
触れたら戻る気がする。
スタジオを出て控室へ戻ると、鏡の中の自分は同じ顔だった。
丸い外鰓。
眠そうな目。
やわらかな口元。
冴えない輪郭。
何も変わっていない。
変わっていないのに、さっきまで確かに、別の線がこの上に重なっていた。
キリエが後ろから言う。
「だから似合ってるって言ったのに」
「何がですか」
「困る日の顔」
キリエは襟元をゆるく整える。
「今日の放送、残るよ」
「そんなに」
「たぶん、朝の流し見で止まるタイプ」
「止まる」
「あなた、ちゃんと止めたから」
端末が震える。
まだ放送は終わっていない時間だ。
スタッフからかと思った。
違う。
ミナセだった。
『いま出た?』
イオルは少し笑う。
『たぶん今』
すぐに返る。
『休憩室で変な声出た』
続けて、もう一通。
『みんな見てる』
みんな。
その文字の重さに、喉がまた少し乾く。
フミからも来た。
『聞いてたより残る』
それだけ。
それだけなのに、イオルは鏡の前でしばらく立ち尽くした。
残る。
売場の人間としてではなく。
同種の多いウーパールーパーのひとりとしてでもなく。
画面の中の、短い数十秒の誰かとして。
しかも、その誰かは自分でありながら、自分だけではなかった。
放送後の確認のため、モニター室へ呼ばれた。
小さな部屋。
暗めの照明。
並んだ画面。
ヘッドホン。
スタッフが数人。
その中央の一番大きな画面に、さっきの本番が少し遅れて流れていた。
イオルは立ったまま、自分を見る。
最初の登場。
少し固い。
棚から小物を取る。
司会が振る。
そして、言う。
「これ、急いでる朝でも手が止まりにくいです」
そこで、確かに何かが起きていた。
自分で見てもわかる。
顔が急に整ったわけではない。
声が大きくなったわけでもない。
なのに、画面の中の空気が一拍だけこちらへ傾く。
自分の輪郭の表面に、薄く細い反射がかかる。
きらめく。
その言葉が、いちばん近い。
スタッフの一人が小さく言った。
「ここだね」
「はい」
「このあとも、抜けない」
「今日、強いなあ」
イオルは息をしないようにして、その数秒を見つめた。
自分なのに、自分を見ている感じがしない。
役というほど大きくない。
でも、ただのイオルでもない。
朝に急いでいる誰かへ、小物を渡す短い人間。
その人間が、画面の中で薄くきらめいている。
モニター室を出る時、鳥頭の女が廊下で待っていた。
「どうでした」
「自分で見ても、少し」
「少し?」
「わかりました」
「それなら十分」
彼女は壁に寄りかからず立っている。
「毎回こうなるとは限らないです」
「はい」
「でも、こういう日があるなら、追う価値はある」
「追う」
「俳優のほう」
イオルは返事をすぐにはできなかった。
追う。
その言葉は、有名になるよりずっと現実的で、ずっと深い。
「今日みたいに、自分が少し軽くなるなら」
鳥頭の女が言う。
「たぶん、向いてます」
「……」
「演じている間だけ違う自分になるんじゃなくて」
「はい」
「演じている間だけ、自分の重さから少し外れる」
その表現が、胸の奥へ落ちる。
重さ。
冴えなさ。
埋もれる感じ。
同種の中に紛れてしまう輪郭。
そういうものから、ほんの少し外れていた。
今日の数十秒のあいだだけ。
帰り道、商業区のガラス面に夕方の光が広がっていた。
上層回廊の影が長く伸び、人の流れは昼より少しゆっくりしている。店先では呼び込み。駅前の大型画面には、別の番組の予告。どこもいつも通りだ。
なのに、イオルは通りのガラスに映った自分を何度も見てしまう。
同じ顔。
同じ体。
灰色の上着。
やわらかな口元。
それでも、今日はその表面に、まだ消えきらない薄い反射が残っている気がした。
端末がまた震える。
今度は店の休憩室のグループだった。
ミナセの短い文。
『ほんとに止まった』
フミ。
『立ち方、今日は正解』
店長。
『売場の勉強にならんぐらいよかったな』
その最後の一文に、イオルは駅前で立ち止まり、小さく笑った。
笑うと、通りすがりの誰かが一拍だけこちらを見る。
喉の奥の熱は、まだ消えていない。
部屋へ戻る。
机の上には、いつもの紙。
名刺。
連絡票。
応募票の控え。
雑誌。
そして端末。
イオルは椅子に座り、前面カメラを起動した。
画面の中の自分は、やっぱりいつもの自分だ。
でも、今日の放送を見たあとでは、その奥に別の線があることを知っている。
「これ、急いでる朝でも手が止まりにくいです」
言ってみる。
少し違う。
さっきのきらめきは戻らない。
同じにはならない。
でも、喉の熱が少しだけ前へ出て、目元の重さが薄くなる。
イオルは録画を止めた。
見返す。
やはり違う。
スタジオの、自分だけでは作れないあの一瞬には届かない。
照明。
司会。
カメラ。
向こう側にいた誰か。
全部が噛み合っていた。
それでも、たしかにそこにいたのは自分だ。
寝台へ横になる。
天井を見る。
静かな部屋。
共用調整の低い音。
喉の奥の熱は、ようやく少し落ち着いてきた。
きらめき。
その言葉を、頭の中で一度だけ言ってみる。
眩しすぎる感じではない。
薄いのに残る。
短いのに、忘れにくい。
今日の自分に起きたことは、たぶんそういうものだった。
初出演。
たった数十秒。
それでも、変異がいちばんきれいに混ざった日として、たぶんこの先も何度か思い出すのだろうと思った。
眠る直前、端末がもう一度震えた。
知らない番号。
短い文だった。
本日の出演、確認しました。
次回、少し長い枠で相談したいです。
イオルは暗い部屋の中で、その文字をじっと見た。
胸の奥が静かに鳴る。
きらめきは、放送が終わってもまだ消えていなかった。
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