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あっ、と、金原は息を飲み、
「い、いや、準備は、い、いいか、と……そ、それだけだ」
深意はないと言って、上着のボタンを留めながら、ぷいと、横を向く。
言われた櫻子は、きゅと体をこわばらせ、はい、と、小さく答えながら俯いた。
「あー、準備できましたかー」
なんとなく気まずい雰囲気漂う中、虎が、人力の用意はできたのだがと、ひょっこり玄関口から顔を覗かせた。
「えーー!奥様!すごいっす!!なんてーか、めっちゃくちゃ、いいすっよ!!可愛いすっ!!!」
虎は、櫻子の姿に釘付けになっていた。
「なんか、若奥様って感じで、俺っち、めちゃくちゃ、好みっすっ!!」
「と、虎さん……」
「へっ?!虎……さん!!いや、虎さんだなんてっ!奥様、虎で、いいすっよぉ!!」
ははは、と、虎は、若者らしく、爽やかに笑っているが、金原は、冷ややかな視線を向けている。
「虎、口には気をつけろ。これは、俺の……、いや、そもそも、俺っちのもんじゃねぇっ!」
え?と、首を捻りながら、もう、出かけられるんですね?と、虎は、怒る金原をさらりと流し、人力車へ向かった。
虎を追うように、おどおどしながら、玄関から出ていく金原と櫻子の姿を、廊下の奥、柱の影から、お浜達が覗き見していた。
「虎のやつ、すげぇなあ。どうして、あそこまで鈍感なんだ?!」
「だよねー、龍」
「……しかし、確かに、可愛いかった……」
「えっ!やだよ!八《や》っつさん!やっぱり、あんたも、若い子がいいのかいぃーー!」
「八代の兄貴、気を付けないと、お浜に、ブスリと、やられますぜ?」
いい加減にしろと、八代は、お浜と龍を叱咤する。
「しかし、お浜、女ってやつは、化けるもんだなぁ。いや、櫻子ちゃんは、元々可愛かったんだよ。それを、柳原の家が!」
龍が、唸るように言った。
「だよねぇ、あんないい子が!まったく、柳原の、いや!!!勝代のせいだよっ!!!」
龍に続いて、お浜も、我慢ならないと、肩を怒らせる。
そうだよなぁ!と、同意する龍の横で、八代は何か考え込んでいた。
「……どうしたんだい?八っつさん?」
「お浜、あの支度、お前が?」
「あいさ!いつまでも、芸者を続けられるもんじゃないからね、若い時から、髪結いのお師匠さんに、髪の結い方や、化粧の仕方を手習いしてたのさ」
なるほどと、八代は頷きながら、更に問った。
「お浜、あれが、今の流行りなのか?」
「うーん、流行りっていうか、普通、なのかねぇ?若奥様は、ほとんど、あの西洋上げ巻きにしているし、近頃は、紅もはっきりと、引くんだよ」
男二人は、お浜の言葉に、ほぉと、感心している。
「先づ、左の手にて髪の根を揃へ、右の手にて其髪を三四回右の方へねぢり、然る後ち適宜に、図の如き曲毛を頭上に作り、毛先を根本へ押込みて、所々を留め針にて押へ留め、散乱せぬ様にするなり……」
「お浜なんだそれ?」
「髪結いの教本の文言《もんごん》」
不思議そうに言う龍へ、お浜は、ふふんと、鼻を鳴らして胸を張る。
「……そんな物まであるのか」
「そうだよ。八っつさん!近頃じゃ、雑誌にも髪の結い方が乗ってるからねえー、誰でも、ぱっぱっと、結えるのさ。櫻子ちゃんは、顔が小造りだから、今回は、髪の巻き上げを、上の位置で留めてみたけど。本当は、女学生風の髪型にしてあげたかったんだよねぇ」
「ほお、奥が深いもんだなぁ。女の支度というのは」
八代は、ポツリと言うと、何か考え込んでいる。
「そうだよー!男には、わかんないだろうけどねぇ、今日のお召しにも、ご注目っ!なんだけどっ!」
お浜は、得意気に、櫻子の装いを語り始める。
「……たしかに!お浜!あの海老茶の小紋は、櫻子ちゃんによく似合ってた!」
「だろ!ちょいと地味に見せかけて、黒の帯で、ぐっと引き締める。着物の柄が、白だから、帯締めも白にして、そこへ、プラチナ台に本真珠の帯留めを合わす。一見、目立たないけどね、よくよく見ると、技が利いていると!まあ、櫻子ちゃんは、まだ若いから、半襟の刺繍で、乙女らしさを出してみましたよー!」
「いよっ!お浜師匠!」
パチパチと、拍手しながら、龍は、お浜へ声をかける。
ほほほ、と、高笑い、お浜は悦に浸っていた。
「よし、お浜、その調子で腕を磨け!」
「八っつさん?」
「八代の兄貴?」
何か、引っ掛かると、お浜も龍も、八代を見る。
「いやな、あの、社長の様子見たか?気取ってるつもりが、うっかり、いい!だとさっ。それに、櫻子さんは、金原商店の社長夫人だ」
八代は、真顔で、もっともな事を言った。
「そうだ!お浜!八代の兄貴の言う通りだ!櫻子ちゃんを、もっと、磨け!贅沢したって、バチはあたらねぇだろ?!」
「そうだね!龍!勝代へ見せつけてやるかっ!!」
おお!と、張り切る二人を横目に、八代は、やはり、一人考え込んでいた。
「よっしゃ!じゃあ!そろそろ、八代の兄貴の帰還祝いも兼ねて、酒盛り始めますかっ!」
弾ける龍に、うんうん、と喜ぶお浜は、台所へ向かおうとするが、動かない八代に気がついた。
「八代の、兄貴?」
「……ああ、すまない。少し仕事の事を考えていてな」
「きゃー!やっぱり、八っつさん!龍とは、大違いだねぇ!!」
けっ、と、龍は、悪態をつくが、はっとする。
「あ!!八代の兄貴!社長の話!聞かせてくださいよっ!!」
「あー!そうだ!キヨシが、櫻子ちゃんと、夫婦になりたかったって?!なんだよそれ!早く聞きたいーー!」
あぁ、わかったわかった、と、八代は、かしましいを通り越した、お浜と龍をなだめた。
そして──。
賑やかな屋敷とは裏腹に、裏路地を無言で歩む金原の後ろを、櫻子は緊張しながら着いて行っていた。
「ここだ」
金原は、煉瓦造りの小さな店の前で立ち止まる。
軒先に吊り下げられた看板には、『洋食屋ランプ亭』と書かれてあった。