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ドアを開けて店へ入る金原の背中を見ながら、櫻子はためらっていた。
洋食屋に来るのは初めてだった。
物心がついた頃には、母は寝たり起きたりの、病床の身。父は店を広げようとしてか、商いに夢中で、店に泊まり込む事がほとんど。櫻子は、そもそも、家族で、それも、外食へなど出かけた事がなかった。
それでも、櫻子は、別段寂しいとも、退屈とも思っていなかった。広大な敷地に、たくさんの女中達がいた。皆が櫻子を気にかけて、屋敷の中で楽しく過ごしていた。何よりも、母がいてくれた。
そんなことを思い出しながら、どうすれば良いのかと、困りきっていた。
「洋食は、苦手か?」
着いて来ない櫻子に気がついたのか、金原が振り返る。
「……い、いえ、初めてなので……しきたりなど、わかりません……だから……」
恐る恐る、櫻子は答えた。
洋食店ということは、きっと、ナイフやフォークを使うのだろう。箸しか使ったことがないだけに、食べ方からがわからない。
まごついて、恥をかくよりは、先に言っておいた方が、人前で金原に怒鳴られなくて済むだろう。
櫻子は、馬鹿にされると、覚悟して俯いた。
「気にする事はない。ここは、そこまで、高級な店でもない。分からないことは、俺に聞け」
言われ、櫻子は、そっと上目使いで金原の様子を伺った。
あの碧い目は細められ、頷いている。
てっきり、不機嫌になるだろうと思っていた金原は、静かに答え、柔らかな表情を櫻子へ向けている。
(……笑った?微笑んでいる?)
店のある路地裏は、さほど日の光を受けていないはずなのに、櫻子には、金原の姿がやけに眩しく感じられた。
そして、その頃、金原の屋敷の台所では……。
「えーー!なんだい!それ!」
「ですよっ!八代の兄貴!期待させておいて、らしい。って、らしい。って、なんですかい!」
お浜と龍が、八代へ食ってかかっていた。
「だから、ハリソンが言うには、と、いっただろうが?」
素知らぬ顔で、八代は、湯飲みに注がれている酒に口をつける。
「で、子供の頃の幼馴染みだか、なんだかが、忘れられなくて、それで、櫻子さんと一緒になった……らしいぞ」
「えー、幼馴染みと、櫻子ちゃんって、どうゆう繋がりなんだよー」
お浜が、愚痴りながら、こちらも湯飲みの酒を口にした。
「さあなぁ。ハリソンの言うことだから、何か裏があるかもしれんし、ないかもしれんし……」
「はあ?!八代の兄貴、そりゃないですよぉ!その流れからすると、櫻子ちゃんと、清は、幼馴染みでっ、なんかこぉー、もぞもぞするような、淡い想い、みたいなのがあって、どうのこうのいうやつかと、思っちまうでしょー!」
「だからな、龍、ハリソンがって、言っただろ?」
「八っつさんー!なんで、そこで、ハリソンなんだよぉー!」
「さあなぁ、お浜、なんでだろうなぁ」
八代は、やや、ろれつが回らない口ぶりで、空になった湯飲みを、龍に差し出した。龍は、へい、と返事をし、一升瓶を渡した。
八代は、黙って受けとると、そのまま、ラッパ飲みし始める。
「あー、八っつさんー!あたいも、空だよぉー」
八代は、お浜に、頷くと、ほれ、飲みなと、空になった一升瓶を手渡した。
「しかし、龍、なんで、赤飯なんだ?」
酒がないと、ごちるお浜を尻目に、八代は龍へ、問うた。
「へへへ、そりゃ、櫻子ちゃんが、やって来た祝いですからねー、赤飯ぐらい用意しないとって、なんで、赤飯しかないんだよっ?!」
「だから、龍、祝いだからだろ?でも、それなら、鏡餅だよねぇー」
「いや、お浜、それは、正月だぞ」
「あー!八っつさん!正月じゃないから、赤飯なんだよっ!」
おお、そうか、そうだな、と、納得する三人は、ただの、酔っぱらいになっていた。
もちろん、金原と櫻子は、用意された祝いの膳が、何故か、赤飯だけとは夢にも思っておらず、木綿生地がかけられたテーブルに、向かい合って座っていた。
金原に、好きなものを選べと、品書きを渡された櫻子は、物珍しさからじっと、見入っている。
──カツレツ15銭、ライスカレー10銭、組み合わせ料理(パン、ビフテキ、フライ、スープ、コーヒー、菓子)50銭──
などなど、どこかで聞いたことのある料理が羅列しているが、どことなく、値が張る様な気がしてならない。
かけそば一杯が、確か3銭。それぐらいは、櫻子も知っている。どの料理も、その何倍もの値段が付いていた。
だが、今や、蕎麦屋や、大衆食堂でも、オムライスや、カツレツ程度なら食べられる時代。それから考えると、やはり、ここは高級店なのではなかろうか。
「ご注文は、お決まりで?」
奥から、白い調理服と前掛けをした、店主らしき男が出て来た。
「ああ、すみません……最近、値上げしたんですよ。ただ、うちは、材料には気を配ってます。バターも使って、小麦粉も、厳選した輸入品ですから!」
櫻子が、品書きに見入っているからか、店主は必死になった。
「……そうか、小麦が、手薄というわけだな?」
金原が、言った。
「はい、輸入品は、さっぱりで、仕方なく国産に変えましたが、そちらも、結局、外へ流れる。国内で商うより、輸出した方が、今は儲けになるようで、小麦の値段は高騰して……。金原の社長!すみません!今月の家賃、もうしばらく!!」
店主は、深々と頭を下げて、金原へ懇願した。
「さあ、どうかな。料理の味次第、というところか?ライスカレーをお願いできるか?」
どうやら、この店は、金原が貸し主のようで、原料の高騰で弱りきった店は、家賃が払えないようだった。
(……もしかして、取立てに?)
その口実に自分も使われたのかもしれないと、櫻子は、はっとする。
「……同じで、いいか?」
金原は、櫻子の困惑など読み取れぬようで、さらりと尋ねて来る。
「は、はい」
そう答えるしか櫻子には出来なかった。
「かしこまりました!いつものですね!」
店主は、嬉しげに奥の厨房へ向かう。やはり、余計な事は言わない方が、いいのだろう。下手なことを質問してしまうと、それがきっかけになって、金原が店主に何を言い出すかわからない。
気持ちを落ち着かせようと、櫻子は、テーブルが五つ並ぶだけの、こじんまりとした店内を眺めた。