深夜の音大は、昼間の喧騒を完全に忘れたように静まり返っていた。
昴は楽譜を手に、いつもの練習室の椅子に沈み込む。今日も翔が先にピアノの前に座り、無言で指先を動かす。
「……昴、今日は誰も呼ぶな」
翔の声は低く、静かだが絶対の命令に近い響きを持っていた。
「はい……」
昴は素直に頷く。友人や教授からの誘いがあっても、彼との時間を優先することが日常になっていた。
鍵盤から広がる音は、夜の静寂に溶けていく。
指先で旋律をなぞる翔の姿に、昴は胸の奥が甘く締め付けられるのを感じた。
――この人の音に、俺の音が重なる時、世界は完璧になる。
「他人が入ると、音が濁る」
翔の言葉に、昴は自然と頷く。言葉に抗う余地などない。
確かに、他人の気配や声が入ると、指先の感覚が鈍る。
自分でも驚くほど、翔の音と自分の音だけで満たされていたいと願っている。
夜が深まるにつれ、練習はますます集中する。
昴は譜面を微調整し、旋律を慎重に確認しながら、翔の指先を追う。
翔もまた、指先のタッチや呼吸に合わせて音を変える。二人の音が互いに溶け合い、どこから昴の旋律で、どこから翔の音か分からなくなる瞬間がある。
時折、翔が立ち上がり、譜面を覗き込む。
「ここは、もっと呼吸を意識しろ」
短く言うだけだが、昴には鼓動が早まるほどの響きだ。
ただの指示でありながら、心の奥に甘い刺激を残す。
二人だけの時間は、世界の外とは完全に切り離されている。
友人の誘いや教授の助言は、まるで遠い国の出来事のように思える。
昴は自然と、誰の目も気にせず、翔の音と自分の音だけに集中できることに安心を覚えた。
ある夜、休憩のために椅子に腰を下ろす。
翔は無言でピアノの上に肘を置き、暗い瞳で昴を見つめる。
「……このまま、ずっと二人だけでやるか?」
言葉の端には、命令とも希望ともつかない響きがあった。
昴は胸の奥で小さく息をつく。
――そうしたい。
その答えを口に出す前に、翔の視線がそれを許すように思えた。
静かな夜、鍵盤から生まれる旋律だけが、二人を包み込む。
他人の声も、拍手も、外界の音もいらない。
ただ、二人の呼吸と指先が絡み合うだけで、世界は完璧に響く。
昴は心の奥で、甘く危うい高揚を感じていた。
――この人となら、どこまでも音の中に溺れていける。
そして、二人の世界は、少しずつ現実の境界を薄くしていった。
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