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放課後の相談室は、いつもより少し暗かった。西日が差し込む窓のカーテンの隙間から、細い光が床を切り取っている。
ドアが静かに開いて、女子が一人、顔をのぞかせた。
「……入っていい?」
「うん、どうぞ」
日下部が手元のノートを閉じる。
彼女は少し間を置いてから、ゆっくり椅子に座った。
しばらく何も言わず、両手を膝の上で組んだまま、指先をいじっている。
やがて、小さな声でこぼれた。
「……忘れたいのに、忘れられないんだ」
日下部が顔を上げる。
「何を?」
「昔のこと。……今よりずっと、笑えてた頃の自分」
彼女は、苦笑に似た表情を浮かべる。
「今は毎日がしんどくて。
あの頃の自分を思い出すたびに、“戻りたい”って思う。
でも、同時に“もう戻れない”って分かっててさ。
だったら、いっそ全部忘れた方が楽なんじゃないかって」
言葉の最後が、かすかに震えていた。
日下部は少し黙ってから、窓の外に目を向ける。
沈みかけた太陽が、校舎の向こうでゆっくり光を落としていく。
「……俺もさ、忘れたいこといっぱいあるよ」
彼女が少し顔を上げる。
「でも、“忘れたい”って思うのって、
本当は、ちゃんとその時を生きてた証拠なんだと思う。
どうでもよかったら、忘れようともしないだろ?」
彼女の目が、少しだけ潤む。
「忘れられないのは、たぶん悪いことじゃない。
その頃の自分が、ちゃんと“いた”ってことだから」
日下部はゆっくりと言葉を継いだ。
「思い出すたびに苦しくなるのは、
今がちゃんと生きてる証拠でもある。
止まった時間を思い出せるのは、
今が、ちゃんと進んでるってことだ」
彼女は、少しの間黙っていた。
そして小さく笑う。
「……なんか、矛盾してるね」
「人生なんて、矛盾ばっかだよ」
日下部も、少しだけ笑った。
外の空が、ゆっくりと群青に変わっていく。
その静けさの中で、彼女がぽつりとつぶやく。
「……忘れたくないって、思えるうちは、まだ大丈夫かな」
「うん。
ちゃんと痛みを覚えてるうちは、生きてるってことだから」
彼女は軽く頷いて、立ち上がった。
ドアの前で振り返り、「ありがと」と小さく言って出ていく。
残された部屋に、夕方の光が薄く差し込む。
日下部は静かに息を吐いて、ノートを開いた。
ページの隅に、小さく書く。
──忘れたいほど、大切な記憶もある。