テラーノベル
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――息が詰まるほどの静寂だった。
初めて足を踏み入れた大ホール。深い藍色のカーテンが吸い込むように光を奪い、観客席はざわめきさえ音楽の前奏のように整っていく。
作曲科一年、昴は客席の最前列から舞台を見つめていた。課題提出の合間に、偶然チラシで知ったリサイタル。名前も顔も知らないピアニストに、なぜか惹かれたのだ。
照明が落ち、ひとりの青年が舞台に現れる。
黒い燕尾服の裾が揺れた瞬間、空気が一段と冷える。指先まで無駄のない動き。昴は思わず息を呑む。
――武藤翔。パンフレットに記されたその名を、昴は胸の内で何度も反芻した。
最初の和音が鳴った瞬間、世界が変わった。
硬質な打鍵と、硝子のように透き通った旋律。ホール全体が彼の内奥と直結しているかのようだ。
音が降り注ぐたび、昴の脳裏には、まだ形にならない旋律が洪水のように溢れ出す。
「……これだ」
自分が探していたもの。昴は指先が震えるのを止められなかった。
アンコールが終わるころには、拍手の渦の中で昴は呆然としていた。
ただ聴いていただけなのに、何時間も鍵盤に向かって作曲した後のような疲労と高揚が胸を満たしている。
舞台袖へ消える翔の背中を、視線が追いかけた。
終演後、観客が波のように出口へ流れていく。
昴はふらりと立ち上がりながら、自分でも驚くほど自然に思った。
――この人と、音を作りたい。
それはただの憧れではなく、必然のように胸奥に沈んでいた。
夜の街は冬の気配を帯びて冷たい。
吐く息が白くほどけるたび、耳の奥ではまだあの旋律が鳴り続けている。
昴はポケットの中で拳を握った。
次にあの音を聴くとき、ただの観客ではいたくない。
心の奥で、ひっそりと決意の音が鳴った。
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