テラーノベル
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昴は楽譜を前に、椅子に深く沈み込むように座った。
課題の提出期限は明日。テーマは「短いが印象的な旋律を一つ」。指先は迷子のように鍵盤の上を彷徨い、頭の中では無数の音が交錯している。
――どうしよう、何も形にならない。
いつものように心が沈み、焦りが胸を締め付けた。その時、練習室のドアが静かに開く音がした。
「……何やってる?」
低く無愛想な声。昴は瞬間的に息を止めた。
振り向くと、そこには翔が立っていた。先日のリサイタルで見たあの人だ。
黒い燕尾服は今日はなく、簡素なシャツとジーンズ姿。だが、背筋の伸びた立ち姿は相変わらず異質な存在感を放っていた。
――な、なんでここに……?
翔は無言でピアノの前に座り、昴の楽譜をちらりと覗き込む。
「弾いてみるか」
言葉はそれだけ。昴は、え、と声にならない声を漏らした。
恐る恐る鍵盤に手を置くと、翔が隣で微かにうなずく。昴は深呼吸し、一音ずつ指を落としていく。
練習室に柔らかい旋律が静かに広がった。課題のテーマに沿った短い曲だが、自分でも驚くほど自然に、音が流れる。
演奏を終えると、静寂が一瞬支配した。昴は顔を上げ、翔の反応を探る。
しかし彼は無表情のまま、ピアノの鍵盤を軽く指で叩いた。音を確かめるように、慎重に。
「……悪くない」
翔の声は、さっきと同じ低さで淡々としている。だが昴には、わずかな興味の光が感じられた。
「あ、ありがとうございます……」
緊張で声が震える。昴は胸の奥の鼓動が速まるのを感じた。
「お前、音が変だと思ったらすぐに直すタイプか?」
「はい……なるべく」
「ふーん」
翔は眉を少し上げただけで、すぐに指を鍵盤に戻した。そして、昴の曲を一度だけさらりと弾き直す。
――音が、違う。
昴の書いた譜面が、まるで別物のように広がった。
無愛想に、しかし確実に昴の曲を“試す”ように弾く翔の指先を見つめ、胸がざわつく。
「……面白い」
それだけの言葉だが、昴には嵐のように響いた。
「え、面白いって……?」
「悪い意味じゃない」
翔は再び鍵盤から手を離し、背筋を伸ばす。目が昴を見た。その視線は、単なる評価を超えて、何かを探るような光を帯びていた。
昴は自分の心臓の音を耳で確かめるように、胸に手を当てた。
――あの演奏会の時と同じ。心を、音に奪われる感覚。
「名前は?」
翔が唐突に訊く。昴は咄嗟に答えた。
「姫川昴……です。作曲科一年の」
「昴か」
彼は口角をわずかに上げ、また鍵盤に向かう。演奏は続けず、ただ座っているだけだが、昴にはそれが重圧のように感じられた。
沈黙が続く。昴は言葉を探したが、何も出てこない。代わりに、手元の譜面をぎゅっと握りしめた。
翔はゆっくりと立ち上がると、振り返りざまに言った。
「もっと弾き込め。才能は無駄にするな」
その声には命令の響きがあったが、同時に何か、微かな期待も混ざっているようだった。
昴はただ頷いた。
――この人に、自分の音をもっと聴かせたい。
その思いが、心の奥で静かに燃え上がった。
翔が去ったあと、練習室には昴だけが残った。
沈黙の中、指先にまだ翔の指の感触が残っているような気がした。
昴は小さく息をつき、鍵盤に手を置く。
――書くしかない。もっと、もっと響かせるために。
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