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朝の光は柔らかいはずなのに、遥には重たく鈍い刃物のように感じられた。
夜の出来事は、胸の奥に焼きついたまま離れない。晃司の低い声、颯馬の薄笑い、あの冷たい沈黙。頭の奥にこびりついて、まぶたの裏にまで滲んでくる。
鏡を覗き込んでも、昨日までの自分と大差はない。少し目が赤いかもしれない。頬がやや青白いかもしれない。けれど他人から見れば誤魔化せる。そう自分に言い聞かせながら家を出た。
けれど、教室に足を踏み入れた瞬間、誰よりも早く日下部の視線が突き刺さる。
何も言わずに席に向かう遥を、じっと追う目があった。
「……おはよ」
声がかすれる。
日下部は短く「おう」と返したきり黙ったが、その沈黙が遥には重い。机に教科書を並べる手元がぎこちなくなる。
1時間目、ノートを取ろうとしても、視線が文字の上を滑っていくばかりで、内容は頭に入ってこなかった。頬杖をつくわけにもいかず、ただ必死にペンを動かす。だが文字は乱れ、線は震えていた。
ふと隣から細い気配が伸びてくる。日下部がわざと何も言わず、視線だけを寄越している。
遥は気づかぬふりをしてノートにかじりついた。
昼休み、逃げ場はなかった。
弁当を広げた瞬間、日下部が机ごと近づいてくる。
「……昨日、何があった」
唐突な問い。声は抑えているのに、鋭さは隠しきれない。
遥は口の中の米粒を飲み下すのに時間をかけた。
「別に。何も」
努めて軽く答えたが、日下部の目はわずかも揺れなかった。
「何もねえ顔してねえよ」
それだけ言い、弁当の蓋を閉じた。
周囲のざわめきが遠のき、二人の間にだけ硬い膜が張る。
「……お前さ」
遥は息を吸った。声を低くして返す。
「俺に首突っ込んで、楽しいか?」
言葉は棘だったが、響きは弱い。
日下部は眉ひとつ動かさず、真っ直ぐに遥を見つめる。
「楽しいわけねえだろ」
「じゃあ、何で」
「放っとけるか」
短いやりとり。
それで、胸の奥がざわりと波打つ。
望んでいた言葉を突きつけられたようで、同時に息苦しくもあった。
「……知らねえだろ。お前は」
唇からこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。
だが日下部には届いていた。
「知ってるよ。お前んちのこと。前から」
心臓が跳ねた。箸が手から滑り落ち、弁当の端に転がる。
遥は慌てて拾い上げたが、手先の震えが止まらない。
「……やめろ」
掠れた声で遮る。
「そんなこと言うな」
日下部はそれ以上言わなかった。ただ目を伏せ、拳を膝の上に置いた。
その拳が白くなるほど握られているのが、なぜか遥には痛かった。
午後の授業はほとんど覚えていない。教科書を開いても文字は黒い点にしか見えず、窓の外ばかりに視線が逃げた。
放課後、カバンを肩にかけて廊下を歩き出すと、背後から名を呼ばれる。
「遥」
振り返ると、やはり日下部だった。
「昨日の夜、本当に……何もなかったのか」
声が低く抑えられているのに、胸に突き刺さる。
遥は咄嗟に笑ってみせた。
「しつけーな」
「……俺は聞きたいんだ」
目を逸らした。視線を合わせたら、揺らいでしまう。
「言わねえよ。絶対に」
吐き捨てるように告げて、そのまま歩き出す。
背後から追う足音はなかった。
だが、胸の奥に残ったのは奇妙なざわめきだった。
拒絶したはずなのに、声を聞いた途端、心臓の鼓動は速くなるばかりで――。