セレネ公爵邸の執務室は白と黒をベースとし、アクセントとして青を加えた物に溢れている。どれをとっても一つ一つに美術的価値があったり逸話のある物ばかりで、歴史を研究する者達などには垂涎モノの一品ばかりが正順と置かれている。そんな室内で、現当主であるメンシス・ラン・セレネがいつもの様に仕事をしていると部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。
「——入れ」
美しいが、無機質な印象のある声色の返事を聞き、公爵家の執事であるテオ・エルミールが部屋に入る。此処ソレイユ王国では珍しい褐色の肌が特徴的な、とても整った顔立ちの人物だ。
「失礼します。メンシス様、先程シリウス家から一報がありました」
書類に目を落としたままだったメンシスがテオの言葉を聞き、ちらりと顔を上げた。碧眼の瞳と緩む口元には明らかに期待が籠っており、『続きを早く』と暗に訴えている。そんな主人の年相応の反応を前にしてテオの表情が仕事仕様のものから少しだけ崩れてしまった。だが彼はすぐに右側に着けているモノクルに白手袋をしている指先でそっと触れて気持ちを切り替える。
「シリウス令嬢の体が意識を取り戻したので、是非顔を出してやって欲しいとの事です」
随分と不可解な言い回しだが、メンシスはふっと嬉しそうに笑い、「そうか」と短く返した。ここ最近、誰も見る事が叶わなかったとても穏やかな顔だ。
「ならば、すぐにでも逢いに行かねばな。——よし、今日も見舞いの花束を用意するか。いや、目が覚めたのならお菓子の方が喜ぶだろうか。あ、でも、寝起きすぐだと食べ物は辛いか。やはり花束を用意してくれ。そうだ、面倒だが今日は馬車を使うとしよう。それなら場合によってはすぐにでもこちらの邸宅に彼女を——」と段々早口になっていくメンシスの言葉を、「メンシス様、それは流石に無理かと」と言ってテオが遮った。
「“あの体”はメンシス様の婚約者ではあれども、今はまだシリウス公爵家のお嬢様である以上、簡単にはこちらにお呼び出来ません。それなりの手順を踏むか、せめてきちんと婚約式を挙げた後でないと世間の目もありますので」
メンシスがテオの言葉を聞き、「——ちっ」とあからさまな舌打ちをする。とてもじゃないが公爵家の当主がする態度ではない。だが、長い付き合いであるテオはそちらの一面を晒して貰えた方が気が楽だった。
「……“あの令嬢”にも優しくなさっていれば、話はもっと早かったでしょうに」と口にし、テオが大袈裟なため息をつく。するとメンシスは苦虫でも噛み潰したみたいにその端正な顔を顰めた。
「ならお前は、何度も何度も何度も殺しても、それでも全然殺し足りない程に憎い相手に優しく出来るのか?初対面の時に大衆の面前であろうが直様首を絞め、面の皮をナイフで裂いて父親の顔に叩きつけたい衝動を堪えた事を今でも褒めて貰いたいくらいなのに、そんなのは到底無理な話だ」
そう言って、メンシスは金色の美しい髪を無造作にかきあげた。
「……婚約者との交流の為にと、月に一、二度一緒にお茶を飲むだけでも地獄だったのに。ましてや……『あの事件』の後では、尚更無理だろ。いっその事、あの日に“カーネ”を殺していたのなら、話はもっと簡単だったんだがな」
「確かに」とこぼし、テオが俯く。二人の脳裏にカーネとティアンの五歳の誕生日の一件が浮かび、顔付きは自然と険しいものになった。
カーネから火傷を負った経緯を聞き、メンシスはそれを側近達に伝えてあるので、セレネ公爵家の者達は全ての真相を知っている。
彼女が一生残る程の火傷を顔に負った原因は全て“ティアン”が原因だ。
だがメンシスには、それでも姉・ティアンとの婚約を解消出来ない理由があり、結局は二人共から距離を取る事を選んだ。カーネと言葉を交わせない期間はメンシスにとって苦痛そのものではあったが、彼女が火傷を負ったのは嫉妬が原因だったとあっては、安易にカーネと関わりを持ち続けるのは危険だ。かといって、今後の為にとティアンにだけは会うというのは、『真相を知っているのに、何故?』とカーネの心を抉りかねない。
彼が七歳の頃に縁を切り、今はもう二十歳になったので、十三年もの期間カーネ達とは逢っていない事になる。 だがメンシスは、逢えない間もシリウス公爵家に潜ませた部下を使い、誕生日には欠かさずカーネにだけはプレゼントを贈っていた。シンプルなハンカチだったり、質素なカトラリーだったりと、贈り物には到底見えない普段使い出来る品を敢えて選んで。 自分からだとは伝えさせてはいないので完全に自己満足だ。『でも、本当に何もしないよりはマシだ』と己に言い聞かせて……。
「「……」」
執務室で二人がしばらく黙ったままでいると、トントンッと扉をノックする音が部屋に響いた。
「入れ」
そうメンシスが返した数秒後、ゆっくり木製の扉が開き、一人の男性がひとまず顔だけを覗かせる。
「すみませーん。お邪魔、でしたか?」
気不味そうにそう訊いた青年の名はリュカ・グリフィスという。短めに切り揃えた茶色い髪と前髪にある白っぽいメッシュが特徴的で、彼もメンシスの側近の一人だ。長身と筋肉質な体を生かして普段は護衛として仕え、場合によっては諜報活動をも得意とする器用な男性である。
「いいや、問題無い。何かあったのか?」
「えっと、またシリウス公爵家から一報があったんでお知らせを、と」
「——続けろ」と、淡々とした声でメンシスが命じた。
「……『ティアンの体調が思わしく無い為、訪問はしばらくの間遠慮願いたい』との事でした」
「ほう」と呟き、メンシスが視線をリュカに向ける。
「で?表向きはそれとして、実際にはどんな理由なんだ?」
来いと言う一報目から一転。今度は『来るな』と言われたからか、メンシスの表情が曇る。まさか、あの家でまた『彼女』に何かあったのかと思うと苛立ちを隠しきれない。
「簡単に訳すと、『当家の実権を全て叔父に任せる。十八年も聖女として覚醒出来ない自分にはもう価値がないので、一人で大人しく生きていく。なので自分の事は探さないで欲しい』という趣旨の置き手紙を残して、“体”が消えたそうです。その為、当主代理である叔父の仕業ではと怪しんだ者もいたみたいなんですが、成人後には次期当主となる令嬢しか隠し場所を知らないはずの、当主の証となる指輪も手紙には添えてあったらしく、そちらの方の問題はすぐに解決したそうです」
「ふむ。……カーネの部屋の奥に隠してあった鞄は?」
「俺も気になって潜伏している侍女に確認しましたが、そちらも無くなっていたそうです。なので、自主的な逃走で間違いないかと」
「そうか。……逃げた、か」
口元に手を当て、メンシスが椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「——よし。次の当主候補をすぐに呼び寄せ、この先どう転んでも良いように引き継ぎの段取りを進めておけ。私の弟だという事にして、『今までは文化的技術の習得や外交などで各国を回っていたが、事が落ち着いて来たから王都に帰還する』と噂を広め、根回しもしておくんだ」
「かしこまりました。では、歳の近い者を選んでおきましょう」
指示を聞き、テオが頭を下げる。彼の頭にはもう、本国から誰を呼び寄せるか、数人の候補が浮かんでいた。
「『私』は魔物の討伐に出たという事にしよう。まだ定期討伐の開始時期ではないが、『辺境伯から緊急の依頼があった』という体にでもしておけばいい。魔物達にもそれっぽく辺境域に出没して挑発行動をして欲しいと頼んでおいてくれ」
「わかりました。んじゃ豪華にトロールやセイレーン達にでも頼んでみますわ」
リュカはニッと笑い、敬礼を返す。
「それはいいな。彼らは楽しい事が大好きだし、『ただの演技でいい』と言われたらより一層面白がりそうだ」と言い、メンシスがククッと笑った。
「よし」と言い、メンシスは椅子から立ち上がると、テオがすかさず上着を差し出す。彼はそれを受け取り、颯爽と羽織った。
「では、『公爵様』から逃げた彼女を追うとするか」
「……楽しそうですね」と呆れ顔で言うリュカに対し、「当たり前だ」とメンシスが返す。
「我々の本能を刺激する行為を彼女はしているんだ。興奮するなと言う方に無理がある」
「まぁ、確かにそうですね」
呆れたままではありつつも、リュカは腕を組んでうんうんと頷いた。
メンシスは自身の右手親指にはめていたセレネ公爵家当主の証となるサムリングを外し、それをテオに渡す。すると彼の頭にはピンッと綺麗に尖った獣の様な耳が、後方からは大きくてフサッとした尻尾が現れ、メンシスがそれを意図的に揺らす。美しい金色だった髪色は、徐々に真っ黒な濡れ羽色に染まっていった。
「さぁ、狩りの時間の始まりだ」
そう呟いた彼の瞳と頬は恍惚に染まり、口元は嬉しそうに弧を描いていた。
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