翌日の教室。空気は昨日よりも重く、窓際の席に座る日下部の肩がわずかに丸まっていた。
手元のノートをめくる指先が震えているのに、自分でも気づかないふりをしていた。
遥は向かいの席に座る。目を合わせようとしない。
互いに沈黙を守るその空気が、かえって痛かった。
授業が始まる。先生の声が教室を満たす。けれど、二人の世界はそこから切り離されていた。
日下部は、視界の隅で遥の動きを追う。ゆっくりと机の上でペンを回す手。まっすぐ座っている背筋。
あの日のこと、まだ胸の奥で引っかかっている。怒りは薄れていた。いや、正確には使い果たしたのだ。
代わりに、言葉にできない“空白”が広がっていた。
休み時間。日下部は席を立つ。何か言おうとしたが、声が出ない。
窓の外に目をやるふりをし、心の中で小さくため息をついた。
そのとき、背後から低い声。
「……お前、遥のこと、どう思ってんだ?」
振り返ると、蓮司は隅で椅子に寄りかかっていた。
その目は冷たいが、観察しているようにも見える。
日下部は答えず、肩越しに視線だけを返す。
その間、遥は気づかないふりをしながらも、日下部をちらりと見る。
あの日のことが二人の間に影を落としているのを、かすかに感じている。
でも、どう反応していいか分からない。
教室がざわつき、他の生徒がペンを落とした音や椅子を引く音が重なる。
日下部はその中で、自分の無力さを噛みしめる。
守ろうと思った相手を、守れなかった。
それだけが確かな現実だった。
休み時間の終わり。日下部はゆっくりと席に戻る。
その足取りは重く、目は床に向けられている。
遥は彼の隣の席に座ることもなく、ただ自分のノートを開いて書き込みを始めた。
その静けさは、日下部にとって安心でもあり、同時に胸を締めつけるものでもあった。
授業中、日下部はノートに言葉を書きなぐる。
思いのたけを吐き出したいのに、書けば書くほど空回りする感覚。
声に出せば、遥を傷つけるかもしれない——そんな考えが頭をぐるぐる回る。
でも黙っていることもまた、心を削る。
放課後。日下部は廊下で立ち止まる。
窓の外には夕陽が赤く差している。教室の中のざわめきが、まるであの日の笑い声を思い出させるように響く。
遥はまだ教室の中。手元の教科書に目を落とし、誰も触れないはずの痛みを抱えている。
日下部は拳を握る。
——何もできない。
怒りも、助けたいという気持ちも、何も形にならないまま、自分の胸に重く沈んでいく。
そのとき、遥の視線が一瞬だけ彼に向けられる。
言葉はない。声もない。
でも、その短い視線が日下部の胸に深く突き刺さる。
“信じていたものが、もう戻らない”という感覚が、二人の間に静かに広がっていった。
日下部は小さく息を吐く。
声を出せないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
沈黙の中で、二人の心は互いに届かずに、わずかに亀裂を広げていた。
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