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一日前の朝、アーダは誓約局でいつも以上に仕事へ没頭した。綴りの確認、封蝋の記録、名簿の照合、書式の整え直し。手を止めなければ考えずに済む。考えなければ、昨夜の回廊の言葉を何度も思い返さずに済む。
ヴォロジャは同じ卓にいて、同じ書類を見ている。鎖で繋がれているから離れようもない。なのに気持ちだけが妙に遠い。必要なことしか言わないまま午前の鐘が鳴り、午後の鐘が鳴った。
「この控え、三枚目が足りません」
「……取ってくる」
「ありがとうございます」
それだけだ。礼儀正しいやり取りほど、昨夜までの近さを薄くしてしまう。ヴォロジャは何度か言いかけてはやめ、アーダはそれに気づくたび視線を紙へ落とした。今さら言い直されても、自分だけを選んだ言葉だと信じきれる気がしなかった。
やがてピエルジュゼッペが厚い鍵束を鳴らしながら現れた。
「もう隠しても意味が薄い。お前たちも、ここまで来たなら知っておけ」
技師長は奥室へ二人を呼び入れ、王家の保管箱を開いた。中には銀色の輪と、古い説明書きが納められている。日を受けていないはずなのに、その輪は澄んだ水面のような光を返した。
「銀色の鎖は罰ではない」
ピエルジュゼッペが言う。
「本来は、本人すら口にできない本音を可視化するための魔具だ。政略や義務に押し潰される前に、『お前は何を望んでいる』と問い返すためのものだ」
アーダは保管箱の中を見つめた。厄介な呪いだとばかり思っていたものが、心を守るための道具だったとは。
「では、なぜ今回こんな騒ぎに……」
「一人の悪意ではないからだ」
技師長は無骨な指を折って数え始めた。
「シグリドは舞踏会を揺さぶるため、お前の名を特別推薦名簿へ入れた。アリツはお前が巻き込まれたと知り、一部の帳面を先に持ち出した。パスコは試作品を味見したことを隠すため、菓子箱を入れ替えた。ナサンは物流を止めないため、控えの抜けた荷にも帳尻を合わせた。保守派重臣は鎖の噂が広がる前にヴォロジャを舞踏会から外そうとした。アンフリーデは急ぎの依頼を疑わず、古い見本を使った」
「……小さな改変が重なった」
アーダがつぶやく。
「そうだ。そこへお前のリセット操作が最後の引き金になった」
悪人が一人いれば、怒りの向け先は簡単だっただろう。だが今回は違う。誰もが誰かのため、あるいは自分の立場を守るため、少しずつ本音から目をそらした。その積み重ねが鎖を呼んだのだ。
ヴォロジャがようやく口を開く。
「解くには、どうすればいい」
「最後の手がかりは地獄門跡だ。関わった者全員の本音を揃えろ。それでも肝心の二人が誤魔化せば、祝福にはならない」
肝心の二人。その言葉が重く落ちた。アーダは視線を伏せる。昨夜傷ついた心は、まだ簡単には立ち上がれない。
奥室を出たあと、ヴォロジャが追いついてきた。
「昨夜のことだが」
「この名簿、保守派の印がもう一つあります」
アーダはわざと仕事の話をした。卑怯だと思う。けれど、いまは聞けない。彼の言葉が自分を救うものか、もっと深く傷つけるものか、まだ見分ける勇気がなかった。
夕方、窓の外の空は雨の前の色をしていた。港の向こう、王都外れの石門がある方角に、重たい雲がたまっている。
地獄門跡へ行かなければならない。そこが最後の場になる。そうわかっているのに、アーダの胸の内はまだ、潮の満ち引きみたいに静かに揺れ続けていた。