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一日前の夕方、地獄門跡には湿った風が吹いていた。王都外れの石門は、かつて港と丘の境に建てられた古い門で、今は扉こそ失われているものの、黒い石枠だけが残っている。潮を吸った石肌には無数の細い傷が走り、近づくほど、そこへ何度も拳が打ちつけられたように見えた。
集まったのは、アーダ、ヴォロジャ、シグリド、アリツ、ミッシー、ナサン、ブランウェン、パスコ、アンフリーデ、そしてピエルジュゼッペ。関わった者が、誰一人欠けずにそこへ立った。空の色は鉛のようで、海から来る風だけが妙に生暖かい。
最初に口を開いたのはシグリドだった。
「私が始めた」
王女は石門を見据えたまま言う。
「窮屈な舞踏会を揺らしたかった。身分と家の都合だけで並ぶ誓いの場を、そのままにしたくなかった。だから制度の外から紙を読める人間を一人立たせたくて、アーダの名を勝手に載せた」
次にアリツが肩をすくめる。
「僕は彼女が巻き込まれたと知って、先に帳面を確保しました。あと、彼が鈍いので少し刺せば動くかと思ったんです」
「少しか?」
ヴォロジャが低く返すと、アリツは悪びれもせず笑った。
パスコは帽子を握りしめ、耳まで赤くしながら白状した。
「試作品を先に食った。怒られるのが嫌で、菓子箱を入れ替えた。まさかそこへ帳面の切れ端まで紛れるとは思わなかったんだ」
「先に食べたんですね……」
アーダが呆れると、彼はしゅんと首を縮めた。
ナサンは石門の足元へ視線を落とす。
「祭り前に荷を止めれば、港全体が詰まる。だから控えのない荷にも後から帳尻を合わせた。流れを守ったつもりだったが、隙をつくった」
アンフリーデはほとんど泣きそうな顔で続く。
「私は急ぎの言づてだと信じて、古い紋章の見本をそのまま使いました。確認しなきゃいけなかったのに、役に立ちたくて急いでしまって……」
誰か一人の強い悪意ではない。善意と保身のあいだで、少しずつ本音を曲げた結果だった。その事実が、かえって重かった。
やがて風が石門を抜け、ごん、と低く響いた。
Knocking On The Hell’s Door。
港の者たちがそう呼ぶ音が、本当に門の向こうから鳴った。ミッシーが思わず息を呑み、ブランウェンは縄を握る手に力を入れる。
ピエルジュゼッペが静かに言う。
「最後だ。お前たち二人が残っている」
アーダは唇を噛んだ。ヴォロジャもしばらく石門を見ていたが、やがて静かに口を開く。
「俺は、誰にでも同じ優しさを配っていれば、自分は選ばなくて済むと思っていた」
大きい声ではない。それでも風に負けなかった。
「誰か一人を選べば、選ばれなかったほうを傷つける。そう思って、ずっと丸く収める側にいた。けど本当は違う。選ばないことで、自分が傷つくのを避けていた。欲しいものを口にして拒まれるのが怖かった」
アーダはその横顔を見つめた。彼は立派だから迷わないのではなかった。迷うたび、優しさの形へ隠れていただけなのだ。
次に彼女の番が来る。喉が詰まり、うまく声が出ない。けれど門の向こうの音は待ってくれない。
「私は」
絞り出した声は、思ったより震えていた。
「正しくあれば、誰も傷つけずに済むと思っていました。完璧な言い回しを探して、間違えないようにして、そうすれば守れるって。でも、本当は怖かったんです。間違えることも、勘違いすることも、好きだと認めることも」
涙がひとつ、頬を伝った。失敗を恐れるあまり、言わないことで守れるものがあると思っていた。けれど言わないまま失っていくものもあると、ここへ来るまでに知ってしまった。
門がもう一度鳴る。ごん、と。
ヴォロジャがアーダのほうを向く。けれど彼はそこでまだ触れなかった。手を伸ばせばいい場面なのに、まず彼女の返事を待つように立っている。その慎重さが、かえって胸を打つ。
風がやみ、石門の黒い輪郭だけが夕暮れのなかに浮いた。
門を閉じる鍵は、もう二人の言葉にしかない。誰もがそれを知っていた。