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於田縫紀
7
第9話 古本街の午後
古本街の午後は、紙の匂いでできていた。
雨は降っていない。
けれど道の端には、
昨日の湿り気がまだ少し残っていて、
本屋の軒先から出された箱の中にも、
しっとりした時間が積もっていた。
磁馬は一軒目の店先で立ち止まった。
箱の中には本が並んでいる。
背表紙が擦れたもの。
角が丸くなったもの。
誰かの名前が小さく書かれたもの。
紙の端が茶色くなったもの。
磁馬は顔を近づけた。
古い紙の匂い。
それは、
花の匂いでも、
食べ物の匂いでもない。
でも、確かに人がいた匂いだった。
読んだ人。
しまった人。
売った人。
また開く人。
その手のあいだを通ってきた匂い。
「いいなあ」
磁馬はそう言って、
肩掛け鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
布袋。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
店の奥から声がした。
「本をお探しですか」
磁馬が顔を上げると、
茶色のカーディガンを羽織った少女が立っていた。
肩の少し上でそろえた髪。
本を持つ手が静かだった。
「匂いを見てた」
磁馬が言うと、
少女は少し目を丸くした。
「匂いを?」
「うん」
「読むんじゃなくて?」
「読む前に」
少女は少し笑った。
「変わったお客さんですね」
「よく言われる」
「私は文乃です」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「珍しい名前ですね」
「よく言われる」
文乃は店先の箱を少し整えた。
「古い雑誌なら、その箱です。詩集は奥。地図と旅行記は右の棚です」
「旅行記」
磁馬はその言葉に反応した。
文乃は店の奥を指した。
「こっちです」
古本屋の中は、外より少し暗かった。
本棚が壁のように並んでいる。
棚と棚のあいだに、
細い通路がある。
足を踏み入れると、
紙の匂いが深くなった。
磁馬は思わず息を吸った。
文乃が少し笑う。
「そんなに匂いますか」
「うん」
「慣れるとわからなくなります」
「もったいない」
「もったいない?」
「いい匂いなのに」
文乃は本棚へ手を伸ばした。
「このあたりが旅行記です」
磁馬は背表紙を見た。
山の名前。
町の名前。
温泉。
港。
峠。
駅。
どれも、
誰かが行った場所の記録だった。
磁馬は一冊を抜き取る。
ページを開く。
紙が、かすかに鳴った。
そこに描かれた小さな挿絵を見て、
磁馬は目を細めた。
「旅してる」
「本が?」
「うん」
その時、
店の奥から主人らしい男が出てきた。
丸い眼鏡。
灰色の上着。
細い値札を持っている。
「旅の本は、棚から出すだけでも少し遠くへ行く」
磁馬は顔を上げた。
「いいこと言う」
男は笑った。
「東吉だ」
「磁馬」
「じば。覚えやすい」
文乃が言った。
「東吉さん、この人、匂いを見てるそうです」
「ほう」
東吉は本を一冊持ち上げ、
鼻の近くへ寄せた。
「昭和二十年代の紙は、少し乾いた粉の匂いがする。こっちはもっとあとだな」
文乃があきれたように言う。
「また始まった」
磁馬は目を輝かせた。
「すごい」
東吉は少し得意そうにした。
「本は黙っているが、匂いは案外しゃべる」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
「描いていい?」
文乃が少し驚く。
「本棚をですか」
「本棚と匂い」
「匂いは描けないでしょう」
「匂いのまわりを描く」
東吉はうなずいた。
「邪魔にならなければいい」
磁馬は棚の隅に立ち、
ペンを持った。
古本屋を描く。
棚。
背表紙。
文乃の手。
東吉の値札。
店先の箱。
午後の光。
そして、
紙の匂いの通り道。
匂いそのものではなく、
人が本に顔を近づける瞬間を描く。
本を抜き取る指。
ページを開く音。
少し目を細める顔。
線が増えるたび、
古本屋の午後が紙の中へ沈んでいく。
その時、
磁馬の布袋が鞄の中で引っかかった。
買った本を入れるつもりで持ってきた袋だった。
磁馬は取り出そうとして、
小さな栞を一枚落とした。
ひら。
栞は床に落ちる前に、
通路の風に押され、
本棚の下へ滑り込んだ。
磁馬の手が止まる。
文乃が気づいた。
「落ちました?」
「栞」
「どこへ」
「棚の下」
東吉はすぐにしゃがんだ。
「この棚の下は狭いぞ」
磁馬もしゃがむ。
暗い。
古い紙くず。
埃。
小さな値札。
栞は見えない。
「探す」
文乃が言う。
「小さい栞ですよね」
「うん」
「見つかるまで帰らないんですか」
磁馬はうなずいた。
「うん」
文乃は少し驚いて、
それから袖をまくった。
「じゃあ探します」
東吉は細い物差しを持ってきた。
「これを使う」
磁馬は物差しを受け取り、
棚の下へ差し込んだ。
かさ。
何かに当たる。
出てきたのは、
古い値札だった。
文乃が受け取る。
「これ、昔の値札」
東吉が見て笑った。
「懐かしい。こんなところに入っていたか」
磁馬はもう一度探す。
今度は紙片が出てきた。
また違う。
文乃が反対側からのぞく。
「こっちに何かあります」
東吉が小さな灯りを持ってくる。
棚の下が少し明るくなる。
そこに、
細長い栞が見えた。
本の背のような茶色で、
床に溶け込んでいた。
磁馬は息を止めた。
物差しをゆっくり差し込む。
栞が少し動く。
さらに押す。
今度は文乃が指でつまんだ。
「取れました」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
栞は少し埃をかぶっていた。
でも折れていない。
磁馬は布でそっと拭いた。
東吉が言った。
「その栞も古そうだな」
「古い」
「本のものかい」
「旅のもの」
文乃は意味を聞きたそうにしたが、
何も言わなかった。
磁馬は栞を鞄の奥へしまった。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
それから、
棚の下から出てきた古い値札と紙片を、
東吉に渡した。
「この店のもの」
東吉は受け取り、じっと見た。
「昔の店の時間まで掘り出したな」
文乃は笑った。
「栞探しなのに」
磁馬はまたスケッチ帳を開いた。
今度は、
棚の下を探す三人を描いた。
物差しを差し込む自分。
灯りを持つ東吉。
栞をつまみ上げる文乃。
古本街の午後は、
少しだけ深くなっていた。
店の外では、
人の声が流れている。
本を買う人。
値段を聞く人。
何も買わずに棚を見る人。
磁馬は旅行記を一冊買うことにした。
ページの端が少し茶色く、
表紙は擦れていた。
文乃が包んでくれる。
「これでいいんですか」
「うん」
「もっときれいな本もありますよ」
「これがいい」
「どうして?」
磁馬は本を見た。
「たくさん読まれてる」
文乃は少し黙って、
丁寧に包み直した。
東吉が値段を言う。
磁馬は小銭袋を出し、
支払った。
小銭袋をしまう。
一つ。
二つ。
三つ。
本は布袋に入れた。
文乃が言った。
「その本、前の持ち主が旅のしるしを挟んでますよ」
「しるし?」
文乃はページを開いた。
小さな紙片が挟まっている。
古い宿の名前。
短い日付。
小さな丸印。
磁馬はそれをじっと見た。
「誰かが泊まった」
東吉が言う。
「古本には、そういう旅の跡が残る」
磁馬はスケッチ帳に、
その紙片も描いた。
旅の跡。
本の中の小さな寄り道。
午後の光が店先から奥へ伸びてきた。
本棚の影が少し動く。
磁馬の絵の中でも、
古本街の午後が少しずつ進んでいた。
店先の本箱に光が当たり、
やがて影になる。
棚から抜かれた本が、
別の棚へ戻る。
旅行記が磁馬の布袋へ入る。
栞が落ちて、
見つかる。
紙の匂いが、
絵の中でゆっくり濃くなったように見えた。
文乃が小さく言う。
「匂い、描けてる気がします」
磁馬は少し笑った。
「見えた?」
「はい。なんとなく」
東吉も絵をのぞいた。
「本の店は、見た目より匂いで残る。これはいい」
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚には、
本を包む文乃を描いた。
茶色のカーディガン。
静かな手。
古い旅行記。
午後の光。
もう一枚には、
値札を書く東吉を描いた。
丸い眼鏡。
灰色の上着。
棚の前で少し曲がった背中。
文乃の絵では、
本のページがほんの少しめくれていた。
東吉の絵では、
値札の紙が午後の光で少し揺れていた。
「いいんですか」
文乃が聞いた。
「栞を探してくれたから」
東吉は絵を受け取り、
店の奥の柱を見た。
「ここに掛けるか。古本屋に絵が増えるのも悪くない」
文乃は自分の絵を大事そうに抱えた。
「ありがとうございます」
磁馬は布袋を肩にかけた。
本の重さが少し増えた。
旅費は少し減った。
でも、
旅は少し濃くなった。
外へ出ると、
古本街の午後はまだ続いていた。
別の店先からも、
紙の匂いがする。
磁馬は足を止めそうになった。
もう一軒。
もう一冊。
そう思った。
けれど鞄を押さえ、
布袋を押さえた。
今日は一冊でいい。
たぶん。
文乃が店先から声をかけた。
「また来てください」
「うん」
東吉も奥から手を上げた。
「今度は栞を落とす前に声をかけろ」
「かなり気をつける」
文乃が笑った。
磁馬は古本街を歩き出した。
鞄の中で、
古本街の午後の絵が静かに時間を進めている。
本が出される。
人が立ち止まる。
ページが開く。
栞が落ちる。
棚の下から昔の値札が出てくる。
旅行記が布袋へ入る。
紙の匂いは、
まだ鼻の奥に残っていた。
磁馬はその匂いを逃がさないように、
少しゆっくり息をした。
古い本は、
閉じていても旅をしている。
そう思った。
そして布袋の中の旅行記が、
歩くたびに小さく揺れた。
コメント
1件
うわ、このエピソードめっちゃ良かった…!「匂いを見る」って表現、磁馬くんらしくてすごく好き。古本屋の空気感が紙の匂いとか光の感じで丁寧に描かれてて、読んでるこっちもその場に立ってる気分になったわ。文乃さんと東吉さんのキャラも優しくて、三人で栞を探すシーンが特にほっこりした。旅行記を選ぶ基準が「たくさん読まれてる」ってのも渋くてグッときたな。静かだけど確かに何かが動いてる、そんな1話だった🔥