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夕暮れの光が、廊下の床を薄く染めていた。
誰もいない放課後の学校は、いつもより広く、少し冷たかった。
遥は相談室のドアを開け、そっと押した。
薄暗い室内には、一人の来訪者がすでに座っていた。
中肉中背の男子生徒だった。
肩は少しすぼまり、膝の上で組んだ指は固く絡んでいる。
けれど、視線だけは落ち着かず、部屋の空気を泳ぐように彷徨っていた。
「……誰かに、何か言われたんだね」
遥がそう告げると、少年の喉がわずかに動いた。
しばらく沈黙が続き、やがて音にならない息が漏れた。
「友達……だったんだと思います。
いや、友達のつもりでいたのは俺だけだったのかもしれないけど」
窓の外で風が枝葉を揺らした。
言葉を言い淀む彼の横顔は、傷に触れられるのを恐れている子どものようだった。
「“お前ってさ、空気読めないよな”って言われたんです。
たぶん冗談のつもりだったんだと思います。
でも、なんか……変な感じになって。
笑えなかった自分が悪いのかって思って」
遥は椅子の背に軽くもたれ、彼の表情を観察する。
少年は続けた。
「その瞬間、言いたかったんです。“なんでそんなこと言うの”って。
でも……言えなかった。
喉が詰まって、声が出なくて。
ただ笑ったふりして、そのまま流しました。
帰ってからも、そればっか考えてて……」
眉間に影が落ちる。
後悔が、癖になった痛みのように居座っているのが分かった。
「俺、ずっとその場面を繰り返してるんです。
あそこで言い返せてたら、何か変わってたんじゃないかって。
なのに、結局なにも言えない自分が嫌で……」
遥は静かに息を吐いた。
まるで、“分かる”と言わずに伝えるような、柔らかい仕草だった。
「その場で言えなかったのは、弱いからじゃないよ」
少年が顔を上げる。
遥の声はどこか遠くを見ているようで、けれど確かに彼に向けられていた。
「その人のことを、まだ大事に思ってたから。
傷つけたくなかったんだろ。
関係を壊したくない相手にほど、“なんでそんなこと言うの”は言えなくなる」
「……大事に思ってた、か」
「うん。
大事に思ってる人に雑に扱われたときの痛みって、
“嫌いなやつに言われる痛み”とは種類が違うよ。
深く刺さるし、抜けにくい。
だから頭から離れないんだと思う」
少年の肩が、少しだけ落ちた。
力が抜けたというより、ようやく呼吸の仕方を思い出したようだった。
「でも……言えなかったことが、そんなに悪いことなのかな?」
遥は机の上のペンを指で軽く転がしながら、言葉を続けた。
「言わなかった、じゃなくて。
“そのとき言えないくらい、傷ついた”ってだけだよ。
人は痛いとき、自分を守るほうを優先する。
それは逃げじゃなくて、生き残るための反応なんだ」
少年の指先がわずかに動き、固まっていた握りしめ方がほどけた。
「……言ってくれて、ありがとうございます」
「思ってるより、みんな同じだよ。
後から“言えばよかった”って悩む。
でもな――」
遥は小さく視線を下げた。
その目には、誰にも見せない傷跡のような影が一瞬のぞいた。
「言えなかった自分を嫌うより、
言われて傷ついた自分を、少しだけ労わるほうが先だと思う」
少年はゆっくりと頷いた。
その頷きは、痛みを完全に手放したわけではないけれど、
少なくとも誰かが同じ痛みを知っている、と気づいた証のようだった。
彼が帰ったあと、相談室に残ったのは淡い夕陽の色だけだった。
遥は窓を少し開け、沈みかけた光を見つめた。
世界は優しくない――彼は知っている。
けれど、人の傷には触れられる。
それだけが、彼のかろうじての支えだった。