数日ぶりに、教室の空気がほんの少しだけ動いた。
窓際の席。日下部は手元のプリントをぼんやりと見つめていた。字を追ってはいるのに、意味が頭に入ってこない。
数日前のあの日——蓮司の声も、遥の俯いた姿も、もう遠い出来事のように霞んでいた。
怒りは、消えていた。
いや、正確には「もう持っていられなかった」。
怒ることに疲れたのだ。怒っても、誰も救われないと知っていた。
ただ、その代わりに胸の奥に沈んでいるのは、言葉にならない“空白”だった。
ドアの音がした。
遥が入ってくる。
その瞬間、教室の時間がわずかに軋んだような気がした。
数秒だけ視線が合い、すぐに離れる。どちらも声を出さない。
周囲のざわめきが遠くなる。
日下部は、心のどこかで思っていた。
——怒りよりも、この沈黙のほうがきつい。
遥の背中がゆっくりと席につく。手は震えていない。表情も静かだ。
けれどその静けさの裏にあるものを、日下部はもう読み取れない。
あの日の後、何を思い、何を感じたのか。聞きたくても聞けなかった。
昼休み、日下部が席を立ったとき、蓮司がすれ違いざまに声をかけてきた。
「なあ、もう許したのか?」
「……別に、許すも何も」
「冷たいな」
蓮司の声には笑いが混じっている。けれど、その笑いの下には何か別の響きがあった。試すような、探るような。
日下部は立ち止まらなかった。
背後から、さらに蓮司の声が追ってくる。
「なあ、あいつさ。悪いと思ってるぞ。……でも、多分、何が悪かったのか、まだ分かってねぇ」
その言葉に、日下部の足がわずかに止まる。
振り返らずに、静かに言った。
「……知ってる」
そして歩き出した。
廊下の突き当たりで、遥が立っていた。
偶然のようで、どこか必然にも見えた。
互いに何も言わないまま、数秒の沈黙が流れる。
遥が、ようやく口を開いた。
「……日下部、あのときのこと、まだ気にしてる?」
「気にしてるっていうか……」
日下部は、視線を床に落とした。
「お前が悪いとかじゃねぇよ。ただ……俺、何もできなかったのが、ムカつくだけだ」
遥の目が一瞬だけ揺れた。
「俺のせいで……?」
「違う」
即座に否定し、日下部は息を吐いた。
「お前のせいじゃねぇ。……ただ、俺はお前を守るって言ったのに、何も守れなかった。それだけ」
言葉はそこまでだった。
沈黙が戻る。
廊下の窓から差す光が、二人の間に細く落ちる。
遥はその光を見つめながら、小さく笑った。
「……それでも、俺は救われてたよ」
「は?」
「お前が怒ってくれたとき。あの瞬間だけ、俺は人間になれた気がした」
日下部は何も返せなかった。
その言葉の意味が、どこか遠くから響いてくるように感じた。
遥はそれ以上何も言わず、すれ違って歩き去った。
その背を見送りながら、日下部は気づく。
——たぶん、もう元には戻れない。
壊れたのは関係じゃない。信じていた“守る”という言葉の意味そのものだ。
教室へ戻る途中、蓮司の視線が一瞬だけこちらを掠めた。
その目は、まるで何かを見届けたように静かだった。
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