『失われていい命は、無い』
狂気じみた正義感を振りかざしながらそんな事を言う奴がたまにいるが、そんなのは理想論でしかないと僕は思っている。だって、死んだ方が世の為だと思える存在ってのは、どうしたって何処の世界にも少なからず居るからだ。
ソイツの両親の育て方が悪かっただとか、そもそも育った環境に問題があっただとか、本人も何らかの被害者だとか。確かにそういうものが理由で歪む者達も一定数は居るだろうが、そもそも魂の根底から腐っている者は、どんなに素晴らしい育て方をしようが、猛毒のまま育つ。上質な環境、健康な体、金銭的にも豊かで心優しい両親や兄弟、そして気心の知れた友人や教師達に囲まれていようが、存在するだけで害悪にしかならない者達を僕は今まで大量に見てきた。
——ルスを産んだ母親も、そんなゴミクズの一人だ。
僕が初めてルスの過去の記憶を『夢』という形で見始めてから数夜が流れていった。こんな事は初めてだ。今まで取り憑いた相手は無自覚に“記憶”を他人には見せまいと壁を作っていたから、こちらから気になった点をたまに覗き見るくらいだったのに。これではまるで僕に何かを知っていて欲しいみたいじゃないか。
(まさか、僕がルスの“家族”になったからか?)
いやいや。まともな家族の定義や理想像すらも持ち合わせていない様な子供が? あり得ないなと、何度かぶりを振った事か。
今日見た記憶はかなり古いものだった。生後数日…… 下手したら、数時間後かもしれないと思うくらいに古い。バスタオルに包まれた赤子を腕に抱えた年配の女性がルスの瞳に何となく映っている。だが視界は狭いしぼやけているしでまともには機能していなかった。脳が辛うじて記録してはいるが、本人が意図的にこの記憶を引き出すのは無理だろう。当人には『覚えている』という感覚すらない、“脳の記録”の一片でしかないからだ。
寒くもないのに年配の女性の腕は震えている。受け入れ難い現実を前にして、驚愕しているのだろう。
『——ど、どう言うことなの⁉︎この子は何なの、誰の子よ!』
年配の女性は、側に居るもう一人の女に向かって叫んだ。赤子の視力では相手の顔が全く認識出来ない。
『だからぁ、孫だってさっきも言ったじゃん。よかったねー孫の顔が見られて。コレって、最高の親孝行なんでしょぉ?よくやったってぇ褒めてもよくね?それにさぁ誰の子かなんて、今はどうでもいいでしょぉ』
面倒だ、もう早くこの場から去りたい。そんな思いが声に滲み出ている。
『だ、だからって…… アンタ、家のお金、突然勝手に持って家出して、あれから何年経ったと思ってるの?今頃戻って来たと思ったら、今度は何?きゅ、急に…… この子を、育てろとか、い、言われても…… 』
『グチグチとうるさいなぁ。とにかく、ソレは母さんが面倒見てよ。アタシ忙しいんだよねぇ。ソレのせいで何ヶ月も仕事休む羽目になったしさぁ。まっ、そのおかげで養育費はがっぽりぶん取れたからぁ、痛い思いした価値は十分あったけどねぇ』
あはは!と笑い、すぐに女はその場から立ち去ろうとした。視線の先には一台の“車”という移動手段と派手な格好をした男が一人。女を待っているみたいだった。
『産後疲れって言うの?とにかくさぁ、もうすんごい疲れたし、マジでもうこれ以上は立ってるのも無理ってくらいダルイの。だからぁ後は任せるから。じゃあねぇー』
ひらひらと手を振って、女が背を向ける。するとその女の腕を年配の女性が咄嗟に掴んで、『待ちなさい!はな、話は、まだ終わっていないわよ!』と、怯えながらも必死に叫んだ。
『…… は?今さぁ、アタシ疲れてるって言ったよねぇ。出産後でマジでホントキツイってわかってる?わかるよねぇ、アンタも母親なんだしさぁ!』
掴まれた手を振り払い、怒りに満ちた声で女は言った。
『だけど、と、突然赤ん坊を引き取れって言われても、こっちだって困るのよ!母さんにも生活があるのよ?お父さんはもう亡くなったし、パートにも行かないとだし、今更赤ん坊の面倒を見る体力も無いのよ』
確かに。年配の女性の腕はひどく細くて、せいぜい二キロちょっとくらいしかない程に軽いルスの身を支えるのすら辛そうだ。
『産んだのなら、貴女がちゃんと面倒を見ないと。この子の母親になったのよ?ちゃんと、自分は親になったんだって自覚して頂戴!』
『——はぁ⁉︎』と言った次の瞬間、女は年配の…… 自分の母親の頬を容赦無く引っ叩いていた。
『親ってのはさぁ、子供の為に尽くすもんでしょう⁉︎育児なんかして、アタシの人生台無しにしろって言う訳ぇ?言わないよねぇ?アンタはアタシの母親なんだからさぁ!』
自分の産んだ子供を、年配の母親に押し付けようとしている女の発言だとは思いたくない滅茶苦茶な言い分が聞こえる。
『アタシの人生はアタシのもんよ!育児?アタシにそんな暇あると思う?ふざけんなよ、このクソババア!こっちが下手に出たらいい気になりやがって!』
そう言って、女はまた自分の母親の頬を叩いた。二度目も強く、先程と同じ頬を。そのせいで年配の女性が足元からよろけてその場にしゃがみ込む。腕の中にいるルスを落としてしまわないよう必死に強く抱いたせいで、幼い彼女は今にも泣き出しそうな気配だ。
『とにかく、アタシはその子の養育費を稼ぐのに忙しいの。体調も悪いんだからさぁ、後はお願いね』
さっき確かに『養育費をがっぽりぶん取った』と言っていたから、どうせ嘘をついているに違いない。その場しのぎの嘘にしたってあまりにも雑過ぎる。
カツカツとピンヒールの靴音が近付いてきた。女は、すっかり恐怖に震える母親の前にしゃがみ込むと、泣き出す寸前で渋い顔をしているルスの頬を真っ赤な爪で軽くつついた。
『んじゃね。ママはご飯代稼いで来るから、ばあちゃんといい子にしてんのよぉ』
ルスを細腕に抱えて地面に座ったまま呆然としている年配の女性をその場に残し、女は悠々と立ち去って行く。だけど、ぶん取った養育費とやらや、稼いで来ると言っていたお金で買った食料が、彼女の腹を満たす事は生涯一度も無かった。
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