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第9話 夏祭りの幻
結婚十周年を迎えた夫婦、吉岡真司と吉岡恵理。
真司は四十代前半、角ばった顎に無精ひげを残し、落ち着いた藍色のシャツを着ている。
恵理は三十代後半、柔らかい黒髪を夜会巻きにまとめ、白地に花柄の浴衣を着ていた。旅行帰りの車内でも扇子を手放さず、微笑みを浮かべている。
帰宅した夜、ポストに一枚の赤いきっぷが届いていた。そこに印字された駅名は、二人が幼いころ行ったことのある「旭町」。けれど、その町はすでに地図から消えているはずだった。
翌日、きっぷを使うと電車は時刻表にない線路へ進み、夕暮れのホームに二人を降ろした。
そこには、提灯で埋め尽くされた夏祭りの賑わい。浴衣姿の子どもたちが駆け回り、屋台の煙が甘辛い匂いを漂わせる。
「……こんな町、まだあったんだな」真司は目を細め、恵理は懐かしそうに屋台を眺める。
だが、よく見ると人々の顔はどれもぼんやりと滲み、まるで古い写真の焼き付けが剥げかけているようだった。
神社の境内で舞を披露する少女も、手の先から徐々に透け始め、やがて影のように消えていった。
その瞬間、境内の大太鼓が鳴り響く──はずだったが、二人の耳には音が届かない。
代わりに、周囲の人々が一斉にこちらを振り向き、口だけで「おかえり」と形をつくった。
慌てて電車に戻った二人。発車した瞬間、祭りの灯りは夜空に吸い込まれるように消えていった。
翌朝、新聞の地方欄に「旭町夏祭り、40年前に中止」との記事が載っていた。
二人が握りしめていた赤いきっぷには、祭りの日付が確かに刻まれていた。