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放課後の教室は、ほとんど人がいなかった。窓際の席に座る遥は、ノートを開いたまま視線を落としている。
ページは白いまま、鉛筆の芯が震える指の先で止まっていた。
廊下から、日下部の声がした。
「……おい、遥」
心臓が跳ねた。
顔を上げるより早く、ドアが開く。
「最近、なんで避けるんだよ」
低く押さえた声。
怒鳴ってはいないのに、言葉の端に焦燥が滲んでいる。
「別に……避けてない」
「嘘つけ」
机を掴む手が震えていた。
日下部の目は赤い。眠っていないのかもしれない。
「連絡も、返さない。話しかけても逃げる。……俺、何かしたか?」
「違う」
「じゃあなんでだ」
「……離れた方がいいって、言われたから」
その言葉に、日下部の表情が凍った。
「誰に」
遥は答えなかった。沈黙が、すべての答えを示していた。
日下部はゆっくりと近づく。
「……怜央菜か?」
声が震えた。
遥の喉がつまる。答えようとしても声が出ない。
「……あいつ、なんて言った?」
「……俺といると、お前が壊れるって」
その瞬間、日下部の顔が歪んだ。
笑いでも怒りでもない、絶望に似た表情。
「壊れるのは、……」
声が掠れていた。
「お前がいなくなる方が、よっぽど壊れるんだよ」
机の角に拳を叩きつけた。
鈍い音が教室に響く。
遥がびくりと肩を震わせる。
「なんでそんな簡単に離れようとするんだよ。俺、どうすればいい?」
怒鳴るような声だったが、その中に涙が混じっていた。
「俺、お前に何かしたか? 苦しめたか? ……なんで、何も言わずに消えようとすんだよ!」
遥の視界が滲んだ。
日下部の手が、机の上で震えている。
指先が血の気を失って白くなっていた。
「……俺、もうわかんねぇよ」
日下部は俯いたまま、小さく呟いた。
「俺のこと、好きなんじゃなかったのか?」
その一言に、遥の喉が焼けるように痛んだ。
好きだ。
けれど、怜央菜の声が頭の奥で反響する。
「あなたが傍にいると、あいつは壊れる」
「離れることが救いになる」
遥は唇を噛んだ。何も言えない。
言葉にした瞬間、すべてが崩れる気がした。
沈黙。
そのとき、教室の扉が静かに開いた。
「──ふたりとも、まだ残ってたの?」
怜央菜だった。
穏やかな笑顔。
けれどその瞳は、どこか冷ややかに光っている。
「……日下部、ちょっといい?」
「今、話してるんだ」
「そう。じゃあ“彼”のために、少し冷静になろうか」
怜央菜は静かに遥を見た。
「そんな顔、見せないで。日下部、余計に壊れちゃうよ」
日下部は、まるで言葉を奪われたようにその場に立ち尽くした。
怜央菜は一歩近づき、彼の腕にそっと触れる。
「あなたは優しい。でも、優しさが刃になることもあるの」
「やめろ」
「ねぇ、気づいてる? 遥が“守りたい”のは、あなたなのよ」
日下部の目が大きく見開かれる。
怜央菜は微笑んだ。
その笑みの裏には、静かな支配の影。
「だから離れようとしてる。あなたを壊さないように」
遥は唇を震わせた。
その言葉が“正しい”ように聞こえるのが怖かった。
日下部は俯き、拳を握る。
怜央菜はその様子を満足げに見つめながら、穏やかに言った。
「さあ、もう帰りましょう。今日はここまでにして」
その夜、遥はひとりで帰った。
廊下の窓に映る自分の顔は、泣いているようにも笑っているようにも見えなかった。