テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
83
#異能力バトル
於田縫紀
1,773
74
コメント
1件
読ませていただきました……第8話、とても胸に迫る回でした。 「非加害者」というタイトルが、もうそれだけで重い。誰も自分を加害者だと思っていない、でも確かに誰かの日常を削っている——その構図の描き方が本当に巧みで。 特にリオが「私、別にいじめてるわけじゃないし」と言いながら、少しずつ加害側へなじんでいく過程が、とても生々しかったです。あの「片目だけ先に細くなる癖」が初めて出たとき、背筋が冷えました。 「その軽さで十分なのだと、もう教室は知っている」——この一文、ノートに書き写しました。 作者さんの、空気の描き方と視線の置き方が本当に繊細で好きです。次が気になります……!
第8話 非加害者
朝の教室は、何も起きていない顔をしていた。
窓から入る光。
机の表面の細い傷。
いすを引く音。
だれかが筆箱を落として、軽く笑う声。
いつも通りだ。
なのに、いつも通りの中に順番がある。
だれが先に座るか。
だれがだれの横を通るか。
だれに向けて笑っても平気で、だれには向けないか。
ミチルは扉の前で一度だけ立ち止まった。
右手の親指が左手のあかぎれを探る。
そこだけが少し痛む。
少し痛いものがあると、自分がまだ消えていない感じがする。
扉を開ける。
だれも大きく見なかった。
それが前よりきつい。
見ないことまで、もう同じ動きになっている。
ヒナがノートの角をそろえている。
肩の少し上でそろえた髪の毛先が、小さくはねる。
サエは机の横でかばんを揺らしていた。
透明な板のキーホルダーが小さく鳴る。
ユウタは後ろの席で首元をゆるめている。
リオは窓際の席で袖を少しまくり、また戻す。
タクミは前髪を手の甲で払って、椅子へ深く座る。
そしてナナカは、頬杖をついたまま窓のほうを見ていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の目だけが、あとからこちらへ来る。
「おはよ」
だれが言ったのかわからないくらい軽い声がした。
ミチルは少し遅れて返す。
「……おはよ」
返した声は教室のどこにも落ちなかったみたいに、すぐ薄くなる。
席へ向かう。
通路は通れるぶんだけあいている。
机と机のあいだの、そのぶんだけ。
それ以上はない。
座ろうとしたとき、いすの脚が少しだけ後ろの机に触れた。
小さな音。
本当に小さい。
それだけで、後ろからユウタが言う。
「こわ」
笑いが起きる。
大きくない。
でも、だれか一人の笑いではない。
「まだ朝なんだけど」
サエが言う。
丸い目のまま、口元だけを手で隠して。
「今日もって感じ」
後ろの女子が言う。
名前を言わなくても、もうだれでも入ってこられる。
ミチルは何も言わなかった。
言えば、また顔や言い方の話になる。
でも言わないことも、すぐ別の意味になる。
ナナカが頬杖のまま、静かに言う。
「ミチルってさ」
その声だけで、教室が少しだけ聞く形になる。
「自分では何もしてないつもりなんだよね」
ミチルは机の上の傷を見た。
細い線が何本もある。
それぞれ別についたはずなのに、近くで見ると一つの模様みたいだ。
「つもりじゃないし」
小さく返す。
ユウタがすぐ笑う。
「出た」
サエも続く。
「またそれ」
だれかが「いつもの」と言う。
だれかが「分かる」と言う。
同じ向きの言葉が、教室のあちこちから出る。
だれが最初かは、もう関係ない。
一時間目は国語だった。
教科書を開く音が揃う。
教師の声が教壇から流れる。
黒板に字が増える。
ミチルはなるべく動かないようにしていた。
ページをめくる指先も、机の端に置く手も、呼吸も、ぜんぶ小さくする。
小さくしていれば、見つからない気がした。
でも、小さくしていることまで、ここでは見つかる。
「今日、静かすぎない?」
前の列から小さな声。
「逆にこわい」
それに笑いがつく。
ひそひそした笑い。
でも、そのひそひそが何人分も重なると、布みたいに広がる。
教師は朗読の箇所を指した。
当てられたのはヒナだった。
ヒナが立つ。
細い手首で教科書を持つ。
声は高すぎず、それでも教室のざわめきより少し前に出る。
ミチルは前を向いたまま、その声を聞いた。
聞いているつもりだった。
なのに、ヒナが読み終えたあと、だれかが後ろで言った。
「今、見てた」
言葉は、小さな針みたいに飛んできた。
「見てない」
反射で言ってしまう。
「え、今の見てないって言うんだ」
サエ。
「じゃあ何してたの」
ユウタ。
「前向いてただけじゃん」
ミチル。
「前にヒナいたけど」
後ろの女子。
笑い。
また笑い。
ヒナは座りながら少しだけ迷う顔をした。
助けるでもなく、否定するでもなく、その顔のまま教科書へ視線を落とす。
その落とし方が、もう前とはちがう。
ミチルはそれを見てしまった。
前は、ヒナは困ったままでも、もう少しこっちを見ていた気がする。
今は、見ないほうが自然みたいに見える。
それがいちばん静かにきつい。
二時間目の休み。
教室の後ろでだれかが笑っている。
特定の話ではないような顔で、でも同じほうを見ながら。
リオが机の横でペンを拾った。
そのとき、ミチルの足元にペンが転がってきた。
ミチルは一瞬、拾おうとしてやめた。
やめた、その一瞬をサエが見た。
「うわ」
丸い目がそのまま大きくなる。
「拾わないんだ」
笑いが起きる。
今度は、すぐに二人三人と重なる。
「感じ悪」
「前なら勝手に触るのに」
「今日は触らないんだ」
触る。
触らない。
どっちもだめ。
もう答えが先にない。
リオが自分でペンを拾う。
あごの少し下で切られた髪の毛先が外へ小さく向く。
その背中を見ながら、ミチルは喉の奥に薄い紙が何枚も詰まっていく感じがした。
「ねえ」
ナナカが言う。
「ミチルって、ほんとは分かってるんだよね」
なにを、と聞かなくても、その先は教室の中にもうある。
「自分が嫌がられてるって」
一拍。
「だから今度は触らないようにしてる」
二拍。
「でもそういうの、余計いやなんだよね」
三拍。
それで完成する。
だれかが「たしかに」と言う。
だれかが「わざとっぽい」と言う。
だれかが「自然にできないの無理」と言う。
自然。
普通。
いつも。
前から。
この教室では、その手の言葉ほど、だれでも持てる。
昼休みになると、弁当箱のふたが開く音が一斉に鳴る。
匂いが混ざる。
ミチルは弁当を机へ置いた。
卵焼き。
ごはん。
小さい唐揚げ。
家の匂いだけが、この教室の中で少し浮く。
「ねえリオ」
サエが言う。
わざとらしくない声。
ふつうの会話みたいな声。
「前、ミチルにされたときってさ、嫌だったよね」
教室の何人かがそのまま聞く。
顔を向けないまま聞く。
箸を持ったまま聞く。
リオは少しだけ肩をすくめた。
鼻の頭がほんの少し丸い横顔が見える。
片目だけ先に細くなる癖は出ていない。
「……まあ」
それだけだった。
「だよね」
ユウタ。
「でもリオって、そういうの言わなそうだったし」
後ろの女子。
「我慢してたんじゃない?」
サエ。
我慢してた。
その一言で、また過去の形が変わる。
嫌だったかも、が、我慢してた、になる。
そして我慢させていた側が、今の教室の真ん中に置かれる。
リオはすぐに否定しなかった。
否定しないだけで、もう乗っている。
ミチルは箸を置きたかった。
でも置いたら、それもまた態度になる気がした。
だから持ったまま、何も食べられない。
ヒナが小さく言う。
「でも、別にリオが悪いわけじゃないし」
助けたかったのかもしれない。
でも、その言い方はもう別の方向へ使われる。
「だれもリオが悪いなんて言ってないじゃん」
サエ。
「むしろずっと被害者側でしょ」
ユウタ。
被害者側。
その言葉が出た瞬間、教室の向きがまたひとつ揃う。
被害者側なら、悪くない。
被害者側なら、言っていい。
被害者側なら、やっても違う。
ミチルはその言葉の置かれ方を見ていた。
見るしかない。
ナナカがやわらかく言う。
「嫌な思いした側なんだからさ」
「そのくらい言っていいと思う」
「むしろ言わないと伝わんないし」
三つ。
いつも通りきれいに並ぶ。
サエがそれに乗る。
「わかる」
「言わないとミチルって分かんないし」
「また同じことするよね」
ユウタも笑う。
「てか、もうしてるし」
後ろの女子が、今日も机当たってたし、と言う。
別の子が、朝からそうだった、と言う。
軽い。
全部軽い。
なのに、軽いものだけでしっかり人が決まっていく。
午後の授業で、教師がプリントを配った。
前から後ろへまわす。
ミチルのところへ紙が来る。
手を伸ばす。
でも、後ろの席の男子が受け取る前に少しだけ顔をしかめる。
「端、折れてない?」
本当に少しの折れだった。
もともとかもしれない。
渡すときについたのかもしれない。
「知らない」
ミチルが言う。
「知らない、ね」
男子が笑う。
今までそんなに話したこともない相手だった。
その笑い方はユウタに似ていた。
でもユウタの真似というほど露骨ではない。
ただ、教室の中で生まれた形に、自然に近づいているだけ。
「雑に扱ったんじゃない?」
サエ。
「こういうの平気そうだし」
後ろの女子。
だれも本気の怒りでは言わない。
本気で怒る必要がもうないからだ。
空気の中で正しそうなことを言うだけで、十分。
ミチルはプリントを見た。
角の折れ。
本当に小さい。
でも、その小ささは、この教室ではもう軽くならない。
「私じゃない」
「じゃあだれ」
ユウタ。
「前の人じゃない?」
「でも今ミチル持ってたし」
「リオのときもそんな感じだったよね」
またリオ。
また前。
過去が、もう使いやすい道具になっている。
リオはそこで、少しだけ笑った。
本当に少し。
口元だけが斜めになる、あの癖の出かけた笑い。
「たしかに」
それだけだった。
その一言は、軽かった。
でも、軽いからこそ広く入る。
ミチルはリオを見た。
リオも見返した。
その目の中に、はっきりした悪意はない。
むしろ、少しだけ安心しているように見えた。
自分がそちら側ではなくなっていることに。
それがいちばん痛かった。
放課後、掃除当番でミチルはほうきを持った。
床をはく。
消しゴムのかす。
紙の切れ端。
細いほこり。
サエが前のほうで笑う。
ユウタも笑う。
後ろの女子もつられる。
だれかが机を少し動かす。
だれかが通りすがりに肩をかすめる。
だれかが「ごめん」と笑って言う。
どれも強くない。
どれも軽い。
どれもだれか一人だけのものではない。
リオが雑巾をしぼっていた。
細い手首。
少しまくられた袖。
手首のうすいペンの跡。
ミチルが通路を通るとき、バケツの取っ手が少しだけはねて、リオのひざに当たった。
ほんの少し。
水もしぶかなかった。
「いっ」
リオが言う。
すぐに大げさではないと分かる程度の声。
ミチルはすぐに足を止める。
「ごめ」
そこまで言いかけたとき、リオが先に笑った。
「また?」
サエが笑う。
ユウタも笑う。
後ろの女子も笑う。
その笑いの中で、リオはバケツを少しだけ足で押し返した。
強くない。
でも、押し返した。
取っ手がミチルのすねに当たる。
「ちょっとじゃん」
リオが言う。
笑いながら。
片目だけ先に細くなる癖が、そこで少しだけ出る。
教室が一気に笑う。
「うわ」
「出た」
「リオいいじゃん」
「それくらいでしょ」
声が重なる。
だれも止めない。
だれもまずい顔をしない。
むしろ、ちょうどいい強さだったみたいに、その場へなじむ。
ミチルはすねのところを見た。
痛みは大したことない。
でも、いま起きたことのほうが重い。
リオは雑巾を持ったまま言う。
「私、別にいじめてるわけじゃないし」
その一言で、さらに笑いが広がる。
「そうそう」
ユウタ。
「被害者側だし」
サエ。
「やり返しただけじゃん」
後ろの女子。
やり返しただけ。
それで全部軽くなる。
ナナカがそこで、やっと静かに口を開く。
「リオは悪くないよね」
一拍。
「ずっと我慢してた側だし」
二拍。
「そのくらいで文句言われても困るし」
三拍。
リオが少しだけ安心した顔になる。
その安心が、ミチルにははっきり見えた。
安心している。
自分は悪くない位置にいると。
そう言ってもらえた位置に。
ミチルは言う。
「今の、わざとでしょ」
その瞬間、教室が少しだけ静かになる。
でも静かなのは一瞬だけだった。
「え」
リオが言う。
本当に驚いたみたいな顔をする。
「いや、当たっただけだけど」
サエがすぐ笑う。
「ミチル、自分がやるときはちょっとで」
ユウタが続く。
「やられるとわざとなんだ」
後ろの女子が言う。
「こわ」
その「こわ」に、また笑いがつく。
リオが肩をすくめた。
「私、そんなつもりじゃないよ」
その言い方は、少し前までミチルが追い詰められるときに何度も聞いたものだった。
今はリオの口から、なめらかに出る。
「ミチルってさ」
「被害者みたいなこと言うよね」
「そういうとこだと思う」
リオは言いながら、自分の言葉に少しだけ戸惑っているようにも見えた。
でも、その戸惑いはもう止まらない。
言葉がいったん教室の中へ出れば、だれかが拾って整えてくれるから。
ナナカがやわらかくうなずく。
「わかる」
その一言だけで、リオの言葉は完成したみたいになる。
ミチルは、ほうきを持つ手に力を入れた。
柄のざらつきが手のひらに食いこむ。
でもその力さえ、ここでは怒っているように見えるかもしれない。
「私、なにも」
そこまで言って、止まる。
なにも。
その先を言えば、また同じ道になる。
なにもしてない。
そんなつもりじゃない。
ちょっとだけ。
やり返しただけ。
もう全部、この教室の中に並んでいる。
リオが、雑巾をバケツへ戻しながら言う。
「私、別に加害者じゃないし」
その言葉は軽かった。
軽いのに、教室の真ん中へ落ちる。
「だよね」
サエ。
「むしろ被害者側」
ユウタ。
「今までの分、ちょっと言っただけじゃん」
後ろの女子。
だれも、いま自分が何をしているかをちゃんと見ていない。
見ていても、その見方のほうが先に決まっている。
非加害者。
そういう顔。
そういう立ち位置。
そういう空気。
そこへ入ってしまえば、だれでも少しやさしく見える。
少し正しく見える。
少しだけなら、なおさら。
タクミが窓際で机を戻していた。
大きな手で机の端を持つ。
一度だけこちらを見る。
リオを見る。
ミチルを見る。
それから前髪を手の甲で払って、何も言わずにまた机を戻す。
何も言わないことまで、もう片側へ入る。
ヒナは後ろで雑巾をたたんでいた。
細い手首。
片側にだけえくぼが出る笑いは、今日は出ない。
「やりすぎじゃない?」
その声は、とても小さかった。
でもすぐに、サエが返す。
「やりすぎってほどでもなくない?」
ユウタも言う。
「ミチルが今までしてきたことのほうがさ」
リオはそれを聞いて、少しだけ口元をゆるめた。
安心したような、許されたような、そんなゆるみ方だった。
その顔で、連鎖が完成するのをミチルは見た。
いじめているつもりはない。
やり返しただけ。
被害者側だから。
こっちは悪くない。
その並びが、きれいすぎるほどきれいにそろう。
掃除が終わり、窓の外は夕方の色になる。
教室の床に長い影がのびる。
机の脚のあいだに細い線がいくつも入る。
リオがかばんを持ちながら、ミチルの横を通る。
そのとき、肩が軽く触れた。
ほんの少し。
でも今回は、リオは止まらない。
振り向きもしない。
「ごめん」
言いながら、笑っている。
その背中を見て、サエが笑う。
ユウタも笑う。
後ろの女子もつられる。
だれもそれを、加害だとは呼ばない。
呼ぶ必要がない。
呼ばなくても、もう正しさのほうが先に置かれているから。
ナナカは教卓の横に立っていた。
頬杖はついていない。
でも、その目はいつも通り静かだった。
「しょうがないよね」
小さな声。
でも、教室には十分。
「ずっと我慢してたなら」
「少しくらい出るよ」
「それで責めるほうが違うし」
三つ。
その三つで、今日の全部がきれいに閉じる。
ミチルはかばんを持った。
肩にかける。
その重さがいつもより片方へ寄る。
教室を出るとき、だれも止めなかった。
だれも追いかけなかった。
そのかわり、背中のうしろで笑い声が続く。
高すぎない声。
鼻で鳴る笑い。
口元を手で隠した笑い。
いくつも混ざる。
階段を下りる。
上履きの先の灰色のこすれが見える。
今日はすねのところに、うすい痛みが残っていた。
ほんの少し。
ちょっとだけ。
冗談みたいな強さ。
その軽さで十分なのだと、もう教室は知っている。
次の日の朝、ミチルが教室へ入ると、リオが前の席の子に話していた。
「私、別にそういうのする人じゃないんだけど」
その言い方には、もう迷いが少なかった。
前よりなめらかで、前より教室になじんでいた。
「でもミチル相手だとさ」
「なんか、みんなそうなるの分かる」
「こっちが悪いわけじゃないし」
前の席の子が笑う。
サエも笑う。
ユウタも鼻で笑う。
だれも、リオを悪い側へ置かない。
置かれるのはいつも同じ場所だ。
ミチルは席へ向かった。
その途中、リオとすれ違う。
リオは少しだけ肩を引くふりをして、わざとらしくない程度に避ける。
その避け方に、教室の何人かが笑う。
もうそれだけで、場ができる。
ナナカは頬杖をついたまま、静かにその様子を見ていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の目。
やわらかい口元。
「ほらね」
小さな声。
その一言だけで、もう十分だった。
元の被害者が、被害者の顔のまま加害側へ立つ。
その形を、教室の空気がいちばんうまく支えていた。