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旧準備室は、夕方になると独特の匂いがした。古い木材と紙の乾いた匂い。それが、外の喧騒と切り離された静けさを作っている。
遥は、黒いパーカーを着たまま窓際に立ち、外に傾きかけた光をぼんやりと眺めていた。背後の机には二つ分の椅子が置かれ、その片方が空いている。
扉が控えめにノックされた。
「……入っていいよ」
遥は振り向かずに言った。声は低く、どこにも急かす気配がない。
戸が開き、細い影が部屋に入る。中学か高校か分からない年頃の子だ。
その子は椅子に座ると、しばらく黙ったまま、袖口を指でいじっていた。
「……相談とか、よく分かんないんですけど」
「分かんなくていい。話したいことだけ話せばいい」
遥は椅子に腰を下ろし、相手に正面から向く。圧を与えるでも、慰めるでもない。ただ“そこにいる”という存在感だけが落ちついていた。
しばらくして、その子はうつむいたまま言葉をこぼした。
「……仲良い子がいるんですけど」
遥は頷かず、呼吸すら揺らさずに続きを待つ。
「その子、よく冗談でいじってくるんです。よくあるじゃないですか、“お前ってさー”みたいな。でも最近……なんか、それが冗談に聞こえなくて」
指先が震えていた。
「……どんなふうに?」
「“お前、マジで鈍いよな”とか、“だから浮くんだよ”って……笑いながら言われるけど、俺は笑えなくて。返しても、言葉が裏返るし……」
言い終えた瞬間、その子の肩が小さくすぼんだ。
遥は目線を落とし、少しだけ呼吸を整えたあと、静かに口を開く。
「冗談ってさ。言った側じゃなくて、受け取った側が決めるもんだから」
その言葉に、相談者は顔を上げた。驚いたような目。
「……でも、あいつ悪気ないし……」
「悪気がないって便利な言葉だよ。言ったほうは何にも失わない」
淡々としているのに、その言い方には温度があった。
相談者は唇を噛んだ。
「……俺が弱いだけなんですか」
「弱いんじゃなくて、察しがいいんだよ。普通の人よりも」
相談者の呼吸が止まり、目が揺れる。
「気づきすぎるやつほど、“冗談の裏”を拾っちゃう。相手がどんな気持ちで言ったかなんて、ほんとは分かんないのに思い込む。だから疲れる」
遥の声は静かで、優しさではなく“理解”が滲んでいた。
「じゃあ……どうすればいいんですか」
遥は少し思案し、指先で机を一度だけ叩いた。
「二つある」
相談者は息を呑む。
「一つ目。“冗談が刺さる”ってことを相手に伝える。全部じゃなくていい。“ちょっと言い方きつい”って一回だけでいい」
「……言えたら苦労しないですよ」
「分かってる。でも、言えそうな日に一回だけでいい。次の日じゃなくてもいい」
遥は続ける。
「二つ目。相手の言葉を、“本音か冗談か決めつけない”こと」
「決めつけない……?」
「どっちに転んでもいいように、間を置くってことだよ。“はいはい、そういうやつね”って、心の中で箱に入れとく」
相談者は胸に手を当てた。
「……そんな器用にできるかな」
「できなくていい。慣れだから。……でもな、刺さる言葉を刺さるまま放っとくと、お前が傷だらけになる」
相談者の表情が崩れ、目に赤いものが滲んだ。
「……俺、そんなに嫌われるようなことしてないのに……」
「嫌われてるんじゃない。ただ、相手が“お前を笑わせるやり方”を間違えてるだけだ」
その言葉に、相談者は堪えきれず鼻をすすった。
「……また来てもいいですか」
「話したいなら、来いよ。俺は別に逃げねぇから」
その言い方は素っ気なくも聞こえるのに、不思議な安心が残った。
相談者が部屋を出て行くと、遥はしばらく天井を見上げ、ゆっくり目を閉じた。
「……冗談が刺さるのは、弱さじゃない」
呟きはひどく静かで、それでも確かな熱があった。