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由天。
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60話 便利じゃないから覚える
朝。
空はやわらかい紫。
雲もなく、
ただそういう色をしているだけの空。
リカは玄関でしゃがみ、
靴のかかとをとん、と床に当てた。
肩までの髪が少しはねている。
寝ぐせのまま、手ぐしで整える。
薄いベージュの上着。
茶色のスニーカー。
くたっとしたリュック。
胸元では、
電子マネーと小さなお守りが
じゃら、と触れ合う。
重さで、
残りがなんとなくわかる。
それを確かめようとは思わない。
いつも、これくらいだから。
「いってきます」
台所から、
湯気と一緒に返事。
おかあさんは灰色のエプロン姿。
髪を後ろで束ね、
包丁の音を一定に刻んでいる。
外へ出る。
団地の階段を下り、
角を曲がる。
三十歩ほど歩いたところに、
四次元装置がある。
柱みたいな形。
鉄鋼の枠。
数字板。
差し込み口。
小銭口。
光らない。
鳴らない。
ただ置いてあるだけ。
もうカナが立っていた。
短い髪。
灰色のパーカー。
腰のサルのぬいぐるみが朝から揺れている。
「おはよー」
「おはよ」
イトもゆっくり歩いてくる。
黄緑の上着。
細い体。
前髪を押さえながら、眠そうな目。
三人、自然に並ぶ。
リカは電子マネーを差し込む。
かち。
小さな手応え。
指が勝手に動く。
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見なくても押せる。
覚えているから。
足元がすっと軽くなる。
景色が切り替わる。
一瞬。
1900スポットの朝の空気。
土のにおい。
パンのにおい。
遠くの声。
校舎が並んでいる。
いつもの景色。
「今日ちょっと早いね」とカナ。
「うん」
それだけ。
特別な感想はない。
毎日の通学だから。
装置は、
ただ通しただけ。
ここからは歩き。
三階の裏階段は混む。
購買は左奥。
理科室は薬品のにおい。
図書室は床がきしむ。
全部、覚えている。
誰も教えてくれない。
書いてもない。
でも、
みんな知っている。
「こっちの廊下、静かだよ」とイト。
自然にそっちへ曲がる。
もし道が光ったり、
矢印が出たりしても、
たぶん見ないと思う。
足が覚えているから。
電子マネーが胸に当たる。
こつ。
軽い音。
それも、
昨日より軽いってわかる。
数字は知らない。
でも、わかる。
覚えていることが、
少しずつ増えていく。
番号。
道。
におい。
音。
増えるたびに、
この場所が、
自分の場所になる。
便利とか、
不便とか、
そういう言葉は浮かばない。
ただ、
覚えているだけ。
それが、
ここで暮らすってことなんだと思った。