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翌朝。
私は昨日、醬油の染みをつけてしまったスカートを穿いていた。膝下丈のAラインだが、左脇が三つ折り分だけプリーツになっている。
全体は淡いネイビーで、プリーツ部分だけ薄いピンクの配色に一目惚れした。
昨日は、ちょうどピンクの部分に醤油を飛ばしてしまって、泣きそうになった。
結果論だが、昨日はこのスカートを穿いていなくて良かった。
非常階段で転びそうになった時にスカートだったら、鴻上さんに対して公然わいせつを犯していたかもしれない。
ワイドパンツでもそうだったかもしれないが、寺田くんの危機に駆け付けるのが更に遅くなったかもしれない。
事故後にへたり込んでしまったことを考えても、そうだ。
とにかく、スカートの染み程度で済んで、その染みがちゃんと落ちて、本当に良かった。
昨日の事故はショックだったが、死者はいなかったとネットニュースで見た。
鴻上さんが居合わせたエスカレーターの事故もだ。
お気に入りのスカートを穿き、おろしたてのストッキングを穿き、一目惚れして買ったはいいけれど箱から出してもいなかったピンクのパンプスを履いて、私はいつもの地下鉄に乗り、いつもの時間に出社しようとしていた。
「おはようございます」
すぐ間近ではっきりと声がして、私は反射的に振り向いた。
「あ、おはようございます!」
「可愛いスカートですね。この時期にぴったりで」
企画部イベント企画課の溝口さんだ。
一月からの中途入社で、企画部の渡部部長が直々に他社から引き抜いて来た女性。
どんなキャリアウーマンがやって来るかと噂になったが、普通の四十代の女性だった。
物腰が柔らかく、親近感を覚えるフォルムと、清楚だがどちらかと言えば地味な服装の彼女は、仕事は丁寧で真面目だと聞く。
入社手続き関係で話してから、こうして話しかけてくれる。
「ありがとうございます!」
お気に入りのスカートを褒めてもらえて、嬉しい。
「彩!」
「え?」
溝口さんが振り返る。
彩、は彼女の名前だ。
スーツを着た男性が走って来て、溝口さんに赤いランチバッグを渡した。
それがランチバッグだと思ったのは、生地に『delicious lunch』の文字と、スプーンとフォークの絵が描かれていたから。
「渡し忘れてた」
「あ、ずっと持たせちゃってたんだ。ごめんね」と、溝口さんがバッグを受け取る。
男性は、はぁと肩で息を吐くと、私を見て軽く会釈した。
「あ、主人なの」と、溝口さんが言った。
「同じ会社の乾さん」と、私のことも紹介してくれる。
「溝口です。妻がお世話になっています」と言ったご主人の、少しだけピリッとした空気に背筋が伸びる。
「こちらこそ、お世話になっています」と、私も挨拶を返す。
素敵な男性だと思う。
頼れる大人の男性って感じがする。
同時に少し恐そうというか、厳しそうにも思った。
穏やかな溝口さんとは、タイプが違う気がする。
「じゃ、俺行くな」と、ご主人が溝口さんに言った。
「うん。行ってらっしゃい」
「彩も」
あ、違った……。
去り際に表情が変わった。
柔らかく、穏やかな微笑み。
思わず、ほうっとため息が漏れた。
「素敵な……旦那様ですね」
「え?」
「一緒にご出勤ですか?」
「ううん。今日はたまたま主人がこの近くに直行だっただけ。いつもは時間も路線も違うの」
「そうなんですか」
いいなぁ、と思った。
溝口さんは何でもないことのように言ったけれど、恋愛から遠ざかって長い私には、肩を並べて歩く相手がいるだけで羨ましい。
私の元カレという男は、二人だけ。
一人は高校生の時に半年、一人は大学生の時に一年付き合った。
二人とも、別れの言葉は同じだった。
『お前、気味悪い』
もうずっと忘れていたのに、突然思い出して、お気に入りのスカートで上がった気分が急降下した。
私、このままずっとひとりなのかな……。
溝口さんと一緒に地上へのエスカレーターの列に並んだ時、お腹の中が、正確には臓器がいたずらにこね回されるような不快感をもった。吐きそうだ。目眩もする。
慌てて手で口を押えると、その場にしゃがみこんだ。
「乾さん!?」
溝口さんの声が、遠くに聞こえる。
何重ものマスクで口を覆っているように、くぐもってもいる。
寒い。
痛い。
気持ち悪い。
こんなところで吐くなんて、嫌だ。
溝口さんだけでなく、たくさんの人の迷惑になるし、お気に入りのスカートも汚してしまう。
そんなことを考えるだけの余裕があったことは不思議だが、そんなことでも考えていないと我慢できなそうだった。
溝口さん、離れて……。
心の中でそう思った時、いよいよ下っ腹が波打った。
もうダメ――!!