テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
莉央からホテルの写真が届いた三日後、真帆から連絡が来た。
『見せたいものがある。二人で話せない?』
指定されたのは、学生時代によく通った喫茶店。
窓際の席で、封筒を抱えて待っていた。妊娠後期へ近づいた腹部を隠せる大きさではない。それでも鞄を膝へ置き、盾にするように両腕を重ねている。
「莉央ちゃんのこと、聞いた」
「遼介から?」
「うん。あの子とは遊びだから心配するなって」
「あなたについても、私には同じことを言った」
唇から色が消えた。
「でも、この子がいる」
「子どもがいることと、遼介があなたを選ぶことは別よ」
「千紘は子どもがいないから、そんなことが言えるの」
以前なら、その言葉だけで立ち上がっていたかもしれない。
私はテーブルの下で拳を握り、座ったまま答えた。
「私に子どもがいないのは、遼介が専門医を取るまで待とうと言ったからよ」
「私には、千紘は子どもを望んでいないって」
「信じたい方を信じたのね」
目を伏せた。
「……そうだと思う」
初めて、言い訳を重ねなかった。
「莉央ちゃんへ送ったメッセージを見せてもらったの。私へ送られたものと、同じだった」
スマートフォンを机へ置く。
『君だけが本当の俺を分かってくれる』
『千紘とは夫婦として終わっている』
『子どもができたら必ず責任を取る』
「莉央にも、一字一句同じものが届いてた」
「それで私に会おうと思ったの?」
「私だけが騙されていたとは言えない。千紘がいると知って続けたのは私だから」
ようやく、自分にも責任があると口にした。
その言葉を聞いても、許せるわけではない。ただ、言い訳だけを並べていた前よりは、ほんの少し現実を見ている気がした。
「航平さんへ話した?」
「まだ」
「約束した一週間は、あと三日よ」
「分かってる」
「私から妊娠の経緯を話すことはしない。でも、不倫については私の弁護士から連絡する可能性がある」
「航平を傷つけたくない」
「もう傷つけてる。知らない時間を延ばすほど、選ぶ権利まで奪うことになる」
腹部へ手を置いた。
「怖い。全部なくなるのが」
「なくしたくないものを守るために、航平さんを騙し続けるの?」
「……話す」
「いつ?」
白波 灯
219
鬼霧宗作
303
「明日。母にも来てもらう」
航平へ話すために書いたメモを見せた。
遼介との関係を始めた時期。
妊娠が分かった日。
子どもの父親を遼介だと判断した根拠。
航平と避妊せずに関係を持った時期もあったため、出生前に親子関係を断定せず、必要な検査を弁護士へ相談すること。
「最初は、遼介さんの子だって言い切るつもりだった。でも、千紘の弁護士さんから、医学的に確認していないことを事実みたいに言わない方がいいって」
「橘先生へ連絡したの?」
「私の方にも弁護士を紹介してもらった。航平へ話す前に、何を隠さず伝えるべきか確認したの」
遼介に選ばれる未来だけではなく、選ばれなかった後の生活も見ようとしている。
遅い。あまりにも遅い。でも、ようやく真帆は現実の方を向き始めていた。
「航平さんに許してもらいたい?」
「許してほしい。でも、許してもらうために話すんじゃない。離婚されるとしても、決めるための事実を渡さないといけないと思った」
「子どものことは?」
「私が育てる。遼介さんへ認知と養育費は求める。でも、航平へ父親でいてとは頼まない」
「今そう決めても、出産後に怖くなるかもしれない」
「うん。だから母と自治体の相談窓口にも連絡した」
以前の真帆は、遼介が自分を選ぶ未来だけを見ていた。
今は、その未来が消えても子どもと生きる方法を探している。
それで裏切りがなくなるわけではない。
たぶん、責任を取るというのは『ごめんなさい』と言って許してもらうことではない。
許されなくても、逃げずに必要なことを続けることだ。
真帆がそこまでできるのか、私はまだ信じ切れなかった。
「学生の頃、私が国家試験前に倒れた時、三日間食事を運んでくれたよね」
私が言うと、驚いた顔をした。
「覚えてたの?」
「忘れてない。父の命日にも、毎年連絡をくれた」
「だったら」
「良い記憶があるから、今の裏切りまで受け入れられるわけじゃない」
目に涙が浮かぶ。
「友達だった時間を、全部嘘にしたくない」
「私もしたくない。でも、本当だった時間があることと、もう友人ではいられないことは両立する」
「いつか、また話せる?」
「約束はできない」
俯いたまま頷いた。
私は彼女を安心させるための未来を渡さなかった。
遼介が全員へしてきたように、その場を収めるためだけの約束を口にすれば、また同じ形になる。
抱えていた封筒を差し出す。
「もう一つ、渡したかったものがある」
中には、七年前の日付が入った産婦人科の領収書と、手術同意書の写しが入っていた。患者名は桐生沙耶。
「どうして真帆が持ってるの?」
「沙耶さんから渡された。病院の駐車場で待ち伏せされて」
「いつ?」
「二か月くらい前。遼介さんから離れろって言われた」
スマートフォンには、沙耶から届いたメッセージも残っていた。
『奥さんより長く、私は遼介先生を待っている』
『七年前のことを忘れたとは言わせない』
『あの人は毎年、同じ日に供養料を送ってくる』
共有口座で見た摘要と一致する。
「遼介は、何と説明したの?」
「昔付き合っていた女が、中絶したことを理由に執着しているって。供養料は罪悪感で払ってるだけだって」
「それを信じた?」
「信じたかった。過去の人なら、私の邪魔にはならないと思ったから」
沙耶が傷ついたことより、自分が選ばれるかを先に考えた。その醜さを、もう隠さなかった。
「この書類は本人の医療情報よ。私が勝手に使うことはできない」
「本人から渡されたと、私の弁護士にも話す。必要なら沙耶さんに確認してもらう」
「橘先生へ相談してから扱う」
封筒を返そうとすると、首を振った。
「預かって。私が持っていたら、怖くなって捨てるかもしれない」
「原本ではなく写しね?」
「うん」
私は封筒を鞄へ入れた。
「莉央が遼介と連絡を取り始めた時期について、何か知ってる?」
「居候より前。遼介さんが、千紘の妹は自分を理解してくれるって話してた。夫婦関係が冷えてると相談してるとも」
「そんな事実はない」
「分かってる。私にも同じことをしたんだと思う」
遼介は女へ近づく前に、私との結婚を壊れたものとして語る。
事実ではなく、誘惑のための舞台設定として。
席を立つ前、スマートフォンの画面をもう一度開いた。
「昨日、遼介さんへ沙耶さんから届いた通知。見せてもらったわけじゃない。肩越しに見えて、撮ったの」
スクリーンショットには、短い一文が表示されていた。
『あの子たちだけ産ませるなら、七年前の約束を全部話す』
送り主は、桐生沙耶。
コメント
1件
読み終えたよ……。 真帆がようやく「言い訳を並べるのをやめた」場面が、すごく胸にきた。まだ完全に変わったわけじゃないけど、自分の責任として口に出したのは大きな一歩だと思う。 それと、沙耶さんの「あの子たちだけ産ませるなら」の一文がすごく不気味で気になる……。七年前の約束って何?重くなる展開でも、千紘が「良い記憶を全部嘘にしたくない」って言うところが、この話の温度を歪める感じがして好きだよ。 続きが本当に待ちきれない……🌙