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放課後の音が、遠くなっていく。チャイムの余韻も、下駄箱の喧騒も、ここには届かない。
「……来たのか。珍しいな」
その一言に、扉の前でうずくまるように立っていた少女の肩が、びくりと揺れた。
名簿では二年の中村琴音。別に目立つ子じゃない。授業中も休み時間も、たいてい静かで、存在感は薄い。
けど、教室のドアの前で何度も立ち止まる姿は、数日前から目にしていた。
「入るなら入れ。……寒いだろ」
おそるおそる、一歩。
もう一歩。
まるで水に入るみたいに、彼女は扉を閉めた。
小さな音が、部屋を区切る結界みたいに響いた。
「椅子、そこ。座っていい」
促されるままに腰を下ろし、膝の上に手を置いた。指がぎゅっと絡まっている。
日下部は、机に肘をついたまま、特に書類も見ず、彼女に背を向けずに座っていた。沈黙を破る気配もなかった。
焦らせない。せかさない。
ただ「逃げ道をつぶさない」ようにしているのが、わかる。
「……あの」
ぽつりと落ちた声。
だが、すぐには続かない。
「……うん。聞いてる」
日下部の声も、静かだ。
彼女の中で、たった一歩だけ踏み出した「音」が、否定されなかったことに、琴音の表情が少し変わった。
「声を……出すのが、こわいんです」
「そうか」
「自分の声が……変に思われたらとか。うまく言えなかったらとか。噛んじゃったらとか。……ずっと、ぐるぐるしてて……」
「あるな、それ。口にする前から、もう全部詰まってる感じ」
琴音は、はっとしたように日下部を見た。
共感とか慰めとかじゃない。ただ、知っている、という声音。
「教室で話そうとすると、みんなが見てる気がして。ちゃんとしたこと言わなきゃって思って、焦って……何も言えなくなる」
「言えなかった後、どうなる?」
「……すごく、情けなくなって。自分って、いない方がいいのかなって思って」
「そんなこと思わせる場なら、そっちの方がダメなんだろうな」
「……でも、みんな普通に話せてるんです。私だけ、変で」
「変でもいいんじゃねぇの?」
ぽつりと言った日下部に、琴音が困ったように笑った。
「それって、逃げてるみたいで。私、逃げたくなくて、ここに来たんです」
「……そうか」
そう言って、日下部はポケットから小さな飴を取り出した。包み紙を破り、口に放り込みながらもう一つ差し出す。
「……喉、渇くだろ。無理して話してると」
受け取った琴音の指が少し震えていたが、それでも丁寧に包みを開け、口元に運んだ。
ほんの少し、肩の力が抜けていた。
「……私、声って、言葉って……出すのがこわかった。でも、聞いてくれる人がいるって、ちょっとだけ……」
「安心するか」
「はい……」
「それで十分だろ。今日のとこは」
琴音は、黙ってうなずいた。
それでもその「うなずき」が、最初のあの、震えるような足取りとはまるで違う。
日下部は椅子を少し引きながら、こんなことを言った。
「声が出ないやつは、ちゃんと心があるやつだ。出ないのは、言葉を大事にしてる証拠だよ」
琴音が、目を見開く。
「軽く口にできないからこそ、重い言葉を知ってる。そういうやつ、嫌いじゃねえ」
「……ありがとうございます」
その声は、さっきよりほんの少しだけ大きかった。
まだ震えていたけれど、確かに「伝えよう」としている音だった。
「また来いよ。話さなくても、ここにいりゃいい」
「……はい」
廊下に出ると、夕暮れが染み込んでいた。
教室の喧騒も、もう終わっていた。
でも彼女の中には、まだ終わっていない「何か」が、静かに息づきはじめていた。