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日下部の相談室に来たその子は、最初から笑っていた。目が笑っていないのは、一目でわかったけれど。
「こんにちは。……なんか、場違いな気がします、私」
「どうして?」
「……だって、私、自分でもどこが“しんどい”のかわからなくて。
誰かにいじめられてるとか、何か特別に辛いことがあるわけでもないし……
でも、ここ最近、朝になると起きるのが怖いんです。学校も、家も、全部」
日下部は、黙ってうなずいた。
いつものように、すぐに助言らしいことは言わない。代わりに、彼は手元の紙に何かを書いている。
少女は、少し焦ったように言葉を続けた。
「私……ずっと、“いい子”でいなきゃって思って生きてきたんです。
お母さんがちょっと不安定で、家の中が緊張してることが多くて。だから、私が怒ったり、泣いたり、ワガママ言ったりすると、家が壊れそうな気がして。
だから、私が“ちゃんと”してれば、きっと大丈夫だって思ってた」
「“自分さえ我慢すれば”、ってやつだな」
日下部が初めて顔を上げた。彼の声は淡々としていたが、どこか優しい温度を含んでいた。
「でも、それ、ずっとやってたら、あるとき気づいたんです。
自分が、今悲しいのか、怒ってるのか、わからない。
誰かに褒められても、何も感じない。
逆に、何か失敗しても、涙が出るだけで、自分の気持ちがそこにない。
まるで誰かが、私の代わりに生きてるみたいで……怖くなるんです」
「……それ、もう、かなり限界だと思うぞ」
少女は目を見開いた。
「……限界、ですか?」
「うん。たぶん、“ちゃんとした子”ってのは、ものすごく強くて、同時にすごく脆い。
誰にも迷惑かけないようにして、ずっと笑って、怒りも悲しみも飲み込んで。
……でも、そうやって自分の感情を無視し続けてたら、いつか、“誰かの感情”しか残らなくなる。
それ、ちゃんと苦しいことなんだよ」
「……じゃあ、私、もう無理してるってことなんでしょうか」
「無理って言葉、今まで何回飲み込んだ?」
「……わかりません。でも、言った記憶は、ないです」
「なら、そろそろ言ってみろ。“無理です”って。俺は聞けるから」
少女の肩が、わずかに震えた。けれど、彼女は泣かなかった。
代わりに、唇を噛んで、少しだけうなずいた。
「……無理、です。ほんとは、ずっと前から」
「よく言ったな」
日下部はそう言って、紙の上に何かを書き足した。
それが何だったのか、少女には見えなかったけれど、少しだけ息がしやすくなった気がした。