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#魔王
青空美空
68
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Misia
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第5話 未来の忘れ物センター
未来の忘れ物センターには、毎日いろいろな物が届く。
傘。
袋。
片方だけの手袋。
名前のない鍵。
未来駅の切符。
古い時代の湯札。
まだ発売されていない菓子の包み。
誰かの昼飯。
どこかの時代から迷いこんだ小石。
忘れ物は、ただの物ではない。
誰かが落とした時間だった。
持ち主の手を離れた瞬間から、物は少しだけ迷子になる。
ここは、そんな迷子たちが一度たどり着く場所だった。
三百二十は、入口で足を止めた。
広い。
とにかく広い。
天井は高く、棚は奥まで続いている。
棚の間を、小さな運搬台が静かに走っている。
札が浮かび、箱が動き、記録が入れ替わる。
どこからか、軽い音が何度も鳴った。
忘れ物センター。
そう聞いていたから、もっと小さな窓口を想像していた。
机があって、係員がいて、落とし主が来る。
そんな場所だと思っていた。
けれど目の前にあるのは、ひとつの町みたいな施設だった。
「口を開けるな」
十八が言った。
三百二十はあわてて口を閉じた。
前にも同じことを言われた気がする。
「ここは初めてです」
「ほとんどの新人はそうだ」
「こんなに広いとは思いませんでした」
「時代は広い。忘れ物も広い」
十八は受付へ向かった。
受付の奥から、一人の回収員が出てきた。
モカ色の作業上着。
黄緑の細い腕章。
分類札の束が腰で揺れている。
足取りが軽く、目元が明るい。
「十八、久しぶり」
「二百九十」
十八は短く返した。
「新人連れ?」
「三百二十だ」
「おお、磁馬案件をもう経験してる新人だ」
三百二十は背筋を伸ばした。
「三百二十です」
二百九十はにこっと笑った。
「ここでは背筋を伸ばしすぎると棚にぶつかるよ」
「棚にですか」
「動く棚があるからね」
そう言った瞬間、三百二十の後ろを棚が静かに通り過ぎた。
三百二十は半歩飛び退いた。
二百九十は声を出さずに笑った。
「今日の依頼は」
十八が言った。
二百九十の顔から笑みが少し引いた。
仕事の顔になった。
腰の札束から一枚を抜く。
「時代異物として届けられた物がある」
「危険度は」
「低い。けど、扱い注意」
「持ち主は」
二百九十は札をひっくり返した。
「磁馬」
三百二十の指先がそろった。
十八はまばたきもしなかった。
「何を落とした」
「スケッチ帳」
二百九十は声を少し落とした。
「しかも、描きかけ」
三百二十は息をのんだ。
磁馬のスケッチ帳。
ただの紙束ではない。
三百二十は江戸の橋で見た。
紙の中の川が、ほんの少し流れているように見えた。
未来市場でも見た。
光の粒を追う手。
線が生き物のように紙へ入っていく。
あれが、落とされた。
持ち主の手を離れた。
「どこで見つかった」
十八が聞いた。
「未来駅、十二番乗換広場。清掃機が拾った」
「本人は」
「未確認」
「探しているか」
「おそらく」
二百九十は記録札を見た。
「ただし、本人の現在地がつかめない」
三百二十は思わず言った。
「磁馬なのにですか」
二百九十が三百二十を見た。
「磁馬だから、かな」
十八は小さく息を吐いた。
「また面倒なことになったな」
二百九十は二人を案内した。
忘れ物センターの奥には、時代異物専用の保管区画があった。
一般の忘れ物とは違う。
時代が違う物。
時代を乱す物。
持ち主が別の時代にいる物。
持ち主の時代が確定しない物。
そういう物が、ここへ一度入る。
透明な箱が並ぶ棚を、三人は歩いた。
未来の飲料容器。
江戸の煙管。
昭和の映画券。
まだ使われていない駅名が印字された切符。
古い温泉宿の木札。
どれも、静かに眠っている。
「忘れ物って、こんなに届くんですね」
三百二十が言った。
二百九十は歩きながら答えた。
「人はよく落とすよ。時代を越えなくても落とす。時代を越えたら、もっと落とす」
「磁馬だけではなく」
「もちろん」
二百九十は少し笑った。
「ただ、磁馬は目立つ」
「有名ですから」
「有名というか、記録が多い」
十八が横から言った。
「言い方を選べ」
二百九十は肩をすくめた。
保管区画の中央に、小さな机があった。
机の上に、透明な箱が置かれている。
その中に、一冊のスケッチ帳が入っていた。
茶色い表紙。
角は少しすり減っている。
紐で留める形。
何度も開かれ、何度も閉じられた跡がある。
ただ置かれているだけなのに、まわりの空気が少しやわらかく見えた。
三百二十は近づいた。
「これが」
「触らない」
十八が言った。
三百二十は手を引っ込めた。
二百九十が読み取り具をかざした。
小さな音が鳴る。
「持ち主反応、磁馬。時代残響、多数。移動履歴、複雑。最終接触、未来駅十二番乗換広場」
「中は見たか」
十八が聞いた。
「確認だけ」
「何が描いてあった」
二百九十は少し言いよどんだ。
「未来駅」
「普通だな」
「それと、まだ起きていない迷子案内」
三百二十は眉を寄せた。
「まだ起きていない?」
二百九十は箱の中のスケッチ帳を見た。
「絵の中で、子どもが迷っていた。記録では、その子はまだ迷子になっていない」
十八の表情が静かに変わった。
磁馬の絵は、時間を映す。
完成した絵の中で、雲が流れ、人が成長し、草が伸びる。
三百二十はその話を聞いていた。
でも、描きかけの絵が未来の迷子を映すとは知らなかった。
「危険ですか」
三百二十が聞いた。
「使い方による」
十八が言った。
「未来の出来事が見えるなら、悪用できる」
「磁馬は」
「悪用しない」
十八はすぐに答えた。
「だが、磁馬以外が見るのはよくない」
二百九十がうなずいた。
「だから早く返したい。でも本人が見つからない」
「いつものことでは」
「いつもより見つからない」
二百九十は困った顔をした。
「たぶん、本人も探している。ただ、別の時代へ行った可能性がある」
三百二十は箱の中のスケッチ帳を見つめた。
磁馬がスケッチ帳をなくす。
それは、小銭袋や筆とは違う。
画家が自分の目をどこかに置いてきたみたいなことではないか。
三百二十には、うまく言葉にできなかった。
「返却手順は」
十八が聞いた。
二百九十は札を並べた。
「まず、未来駅の落下地点を確認。次に、磁馬の移動経路を推定。市場、乗換広場、植物区画、古書通路の四つが候補」
「広いな」
「磁馬だからね」
「それは理由になるのか」
「なる」
二百九十はまじめな顔で言った。
三百二十は思った。
なるのだろう。
磁馬案件では、だいたいなる。
三人は未来駅へ向かった。
未来駅は、駅というより大きな流れだった。
人が歩く。
音が重なる。
案内板が変わる。
床の線が行き先ごとに光る。
列車は見えない場所から来て、見えない場所へ去っていく。
十二番乗換広場は、その中でも広かった。
中央に大きな柱があり、周囲に休憩台が並んでいる。
店もある。
案内機もある。
人も多い。
「ここで拾われた」
二百九十が床を指した。
広場の端。
休憩台の近く。
柱の影。
三百二十はそこにしゃがんだ。
もちろん、もうスケッチ帳はない。
清掃機が拾い、忘れ物センターへ届けた後だ。
「磁馬はここで座ったんでしょうか」
「たぶん」
十八は柱を見た。
「描いた可能性が高い」
二百九十が周囲の記録板を確認した。
「周辺映像は残っているけど、磁馬の姿は途中で抜けてる」
「抜ける?」
「人の流れに混ざるのがうますぎる」
三百二十は妙に納得した。
二百九十が記録板を操作すると、広場の光景が薄く浮かんだ。
過去の映像。
人の動きが淡く重なる。
その中に、磁馬がいた。
茶色の上着。
布の肩掛け鞄。
スケッチ帳を膝に置き、柱のそばで絵を描いている。
その周りを人が流れていく。
磁馬は何度か顔を上げ、案内機の方を見る。
迷子の子どもがいるわけではない。
けれど、何かを見ているようだった。
やがて磁馬は立ち上がる。
鞄を肩にかける。
筆をしまう。
そして、スケッチ帳を休憩台に置いたまま歩き出した。
三百二十は思わず声を出した。
「置いていきました」
十八がうなずく。
「置いていったな」
「なぜ気づかないんですか」
二百九十が静かに言った。
「磁馬だから」
十八が二百九十を見た。
「使いすぎだ」
「便利で」
映像の中の磁馬は、人の流れの中へ入っていく。
一度、腰の小銭袋を確認する。
鞄を確認する。
でもスケッチ帳には気づかない。
三百二十は胸がそわそわした。
「本人はどこへ」
二百九十が映像を追う。
磁馬は案内板の前で止まる。
何かを見上げる。
それから、植物区画へ向かって歩き出した。
「まず植物区画」
十八が言った。
植物区画には、未来の植物が並んでいた。
葉が透明に近いもの。
触れると音がするもの。
夜でも眠らないもの。
花ではなく小さな灯りをつけるもの。
三百二十は目を奪われた。
「見すぎるな」
十八が言った。
「はい」
「磁馬なら見すぎる」
二百九十が言った。
「そして描く」
「そして落とす」
十八が言った。
三百二十は口元がゆるみそうになった。
磁馬の姿は見つからなかった。
ただ、植物区画の案内係が覚えていた。
「ああ、茶色の上着の絵描きさん」
案内係は言った。
「すごく楽しそうに見ていましたよ。葉の音を聞きながら絵を描いていました」
「スケッチ帳は」
二百九十が聞く。
「持っていなかったと思います。小さな紙に描いていました」
三百二十は眉を上げた。
「小さな紙」
「はい。手元が少し困っている感じでした」
十八が小さく言った。
「気づき始めたな」
磁馬は植物区画で、小さな紙に絵を描いた。
スケッチ帳がないことに気づきかけた。
でもまだ、どこに置いたかまではわからない。
三百二十には、その様子が目に浮かんだ。
鞄を探る。
紙束を出す。
首をかしげる。
とりあえず描く。
それから、また首をかしげる。
「次は」
二百九十が記録を確認した。
「古書通路」
十八が言った。
「未来駅に古書?」
「あるよ。昔の本も、未来の本も、なくなると探す人がいるから」
二百九十は歩き出した。
古書通路は静かだった。
未来駅のざわめきが少し遠くなる。
棚には本が並んでいる。
紙の本。
薄い板の本。
音だけの本。
読むたびに内容が少し変わる本。
その中に、昔の古本屋に似た匂いがあった。
三百二十は少し落ち着いた。
店主は年齢のわからない人だった。
灰色の長い服を着て、丸い眼鏡をかけている。
手には古い紙の本。
「絵描きさんなら来ました」
店主は言った。
「ずいぶん探し物をしていましたね」
三百二十の指先がそろった。
「探していた?」
「本ではなく、自分の物を。鞄を何度も開けて、机の下を見て、棚の間を歩いていました」
十八が聞いた。
「何か言っていたか」
「スケッチ帳がない、と」
三百二十は胸がぎゅっとなった。
本人は気づいた。
探し始めた。
「どこへ向かいました」
二百九十が聞いた。
「乗換広場へ戻ると言っていました」
「戻ったのか」
「その前に、人に道を聞かれていました。確か、迷子案内所の場所を教えていたと思います」
三百二十は顔を上げた。
迷子案内。
スケッチ帳に描かれていた、まだ起きていない迷子。
十八と二百九十も目を合わせた。
「迷子案内所へ行こう」
十八が言った。
未来駅の迷子案内所は、丸い部屋だった。
壁にはやわらかな光が流れ、子どもが怖がらないように、低い椅子が並んでいる。
案内係が三人いた。
そのうち一人が、磁馬を覚えていた。
「いました。絵描きの方ですよね」
案内係は言った。
「迷子の子を連れてきてくれました」
「子どもが迷子に?」
二百九十が聞く。
「はい。ついさっき」
三百二十は息をのんだ。
「記録では、まだ迷子になっていないはずでは」
二百九十が記録札を見た。
「なったんだ。今」
案内係は続けた。
「その子、泣きそうだったんですけど、絵描きの方が駅の柱の絵を見せながら連れてきてくれて」
「スケッチ帳は」
十八が聞いた。
「持っていませんでした。小さな紙でしたよ」
「本人は今どこへ」
「休憩台を探すと言って、十二番広場へ戻りました」
三人はすぐに戻った。
十二番乗換広場は、相変わらず人が多かった。
柱。
休憩台。
店の灯り。
床の線。
三百二十は人の流れを見渡した。
磁馬はいない。
「遅かったか」
二百九十が言った。
「いや」
十八は休憩台を見た。
「ここに戻ったなら、気づく」
「でもスケッチ帳はもうセンターに」
三百二十が言う。
「だから、ここで迷う」
十八は周囲を見た。
三百二十も見た。
磁馬がいそうな場所。
柱の影。
案内板の下。
店先。
噴水に似た案内灯のそば。
どこにもいない。
その時、三百二十は足元に小さな紙を見つけた。
拾う前に、十八を見る。
十八がうなずいた。
三百二十は紙を拾った。
そこには、未来駅の柱が描かれていた。
簡単な線。
でも、見ればすぐにここだとわかる。
柱の横に、小さな子どもの後ろ姿。
その子が進む先に、迷子案内所の丸い入口。
絵の端に、小さく文字があった。
迷子、案内済み。
スケッチ帳、未発見。
三百二十は文字を見つめた。
「これ、磁馬が」
「置いていったな」
十八が言った。
二百九十は困ったように笑った。
「落とし物を探しながら、別の置き手紙を残してる」
「これは回収対象ですか」
三百二十が聞く。
十八は少し考えた。
「磁馬の物だ」
「つまり」
「本人へ返す」
二百九十が記録札を確認した。
「この紙の時代残響は新しい。本人は近い」
「どこへ」
「たぶん、落とした時の足取りを全部たどってる」
三百二十は目を上げた。
「植物区画、古書通路、迷子案内所」
「そしてまたここ」
十八が言った。
「ぐるぐる回るな」
二百九十がつぶやいた。
「磁馬だから」
十八はもう訂正しなかった。
三人は、磁馬を探して未来駅を歩いた。
植物区画。
いない。
ただ、案内係が言った。
「また来ましたよ。すごく困った顔で、葉っぱにまで聞いてました」
古書通路。
いない。
店主が言った。
「棚の間を三周しました。最後に、見つからない時ほど落ち着くと言っていました」
迷子案内所。
いない。
案内係が言った。
「迷子の子のお母さんが見つかって、絵描きさんも喜んでいました。そのあと、十二番広場へ戻ると」
戻ってばかりいる。
探してばかりいる。
でも、その途中で誰かを助けている。
三百二十は歩きながら思った。
磁馬は、自分のスケッチ帳を探している。
なのに、迷子を案内し、落ちていた紙を拾い、店主に本を戻し、植物の葉の音に耳をすませる。
急いでいるのに、周りを見ている。
だから、物を落とすのかもしれない。
周りを見すぎるから。
でも、だから見つけられるのかもしれない。
周りを見ているから。
未来駅の十二番広場へ戻った時、磁馬はいた。
休憩台のそば。
柱の影。
最初にスケッチ帳を置いた場所。
磁馬はそこにしゃがみこんでいた。
床を見ている。
休憩台の下を見ている。
鞄を開けている。
閉じている。
また開けている。
三百二十は胸が締めつけられた。
「声をかけますか」
「まだ」
十八が言った。
「でも、スケッチ帳はセンターです」
「本人がここまで戻った」
「はい」
「なら、次は届ける」
二百九十が透明な返却ケースを取り出した。
中にはスケッチ帳が入っている。
忘れ物センターから持ち出すための保護ケースだった。
「直接渡すんですか」
三百二十が聞く。
「忘れ物センター職員としてなら自然」
二百九十は腕章を指した。
「ここでは私の出番」
二百九十は磁馬へ近づいた。
三百二十と十八は少し離れて見守った。
「すみません」
二百九十が声をかける。
磁馬が顔を上げた。
目元に疲れがある。
でも、声をかけられるとすぐにやわらかく笑った。
「はい」
「お探し物ですか」
「あ、はい。スケッチ帳を」
「こちらではありませんか」
二百九十が返却ケースを開けた。
磁馬の目が大きくなった。
それから、顔全体がほどけた。
「あった」
その声を聞いた瞬間、三百二十は未来市場の小銭袋を思い出した。
江戸の橋の筆も思い出した。
同じ声だった。
磁馬は両手でスケッチ帳を受け取った。
表紙に触れる。
角をなでる。
紐を確かめる。
中をそっと開く。
紙が一枚、ふわりとめくれた。
三百二十の位置から、絵が少し見えた。
未来駅の柱。
迷子案内所。
泣きそうな子ども。
その横に、磁馬自身らしい小さな後ろ姿。
描きかけだった絵が、少しだけ進んでいるように見えた。
磁馬は目を細めた。
「よかった」
二百九十が言った。
「未来駅十二番広場で拾得されました」
「ここですね」
磁馬は休憩台を見た。
「やっぱりここでしたか」
「お心当たりが?」
「ありすぎて、途中で一周しました」
二百九十は笑いをこらえた。
「一周で済みましたか」
「たぶん二周です」
磁馬はまじめに言った。
三百二十は少し肩が揺れた。
十八は何も言わなかったが、たぶん同じものをこらえていた。
磁馬はスケッチ帳を胸に抱えた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「忘れ物センターですから」
二百九十は自然に答えた。
「届けられてよかったです」
磁馬は頭を下げた。
それから、少し離れた三百二十と十八の方を見た。
目が合った。
磁馬は何か言いかけたように見えた。
でも言わなかった。
ただ、いつものように軽く頭を下げた。
十八も小さくうなずいた。
三百二十も、少し遅れて頭を下げた。
二百九十が記録札に書く。
スケッチ帳。
持ち主、磁馬。
本人返却完了。
十八が横から言った。
「本人回収ではないな」
二百九十が考える。
「本人返却確認」
「そんな項目は」
「作ればいい」
十八は少しだけ黙った。
「局に怒られるぞ」
「忘れ物センターは、たまに怒られるくらいがちょうどいい」
二百九十はさらさらと書いた。
本人返却確認。
三百二十はその文字を見た。
本人回収確認とは少し違う。
持ち主が自分で見つけることもある。
誰かが持ち主へ返すこともある。
どちらも、物が帰ることに変わりはない。
磁馬はスケッチ帳を鞄にしまわなかった。
今度はしっかり両手で持っている。
そして、休憩台に座った。
描きかけの絵を開く。
筆を取り出す。
三百二十たちは、少し離れて見ていた。
磁馬の筆が動く。
迷子案内所の絵に、親子の姿が足されていく。
子どもが母親の手を握っている。
周囲には、未来駅の人の流れ。
柱。
休憩台。
そして端の方に、小さく忘れ物センターの腕章をつけた人影。
二百九十が小さく息をのんだ。
「私かな」
「たぶん」
三百二十が言った。
二百九十は少し照れたように腕章を触った。
絵の中の人影は、小さい。
でも確かにそこにいる。
忘れ物を返す人。
時代の裏側で動く人。
磁馬は描き終えると、スケッチ帳を閉じた。
今度は紐をしっかり結び、肩掛け鞄の奥へ入れた。
さらに鞄のふたを確認した。
一度。
二度。
三度。
十八が言った。
「今日は調子がいい」
三百二十は未来市場の時と同じ言葉だと思った。
二百九十が首をかしげた。
「今、三度確認したよ」
「磁馬としては調子がいい」
十八はまじめに答えた。
その時、磁馬が歩き出した。
三人は反射的に足元を見た。
何も落ちていない。
二百九十は胸に手を当てた。
「よし」
十八がうなずいた。
「よし」
三百二十も、小さくうなずいた。
「よし」
未来駅の人波の中へ、磁馬の背中が消えていく。
茶色の上着。
布の肩掛け鞄。
その中にはスケッチ帳。
今度は、ちゃんと持ち主と一緒だった。
忘れ物センターへ戻ると、施設の音が前より少しやわらかく聞こえた。
棚が動く。
札が浮かぶ。
箱が運ばれる。
誰かの落とした時間が、また別の誰かの手で整理されていく。
二百九十は受付の奥で記録をまとめた。
三百二十は横で見ていた。
未来駅十二番乗換広場。
拾得物、スケッチ帳。
時代残響、多数。
持ち主、磁馬。
返却経路、忘れ物センター対応。
迷子案内事案と関連あり。
本人返却確認。
「最後の項目、本当に通るんですか」
三百二十が聞いた。
「通す」
二百九十は明るく言った。
「だって返したから」
十八が記録筒を閉じた。
「報告で揉めたら自分で説明しろ」
「もちろん」
二百九十は札を箱に入れた。
箱が低く鳴った。
記録が受理された。
三百二十はその音を聞きながら、スケッチ帳のことを考えた。
物は、持ち主の手を離れると迷子になる。
でも、迷子になった物は、誰かに見つけられることもある。
そして、誰かの手で帰ることもある。
磁馬はいつも、自分で見つける。
見つけるまで探す。
でも今日は、センターが返した。
それでも磁馬は、あの声で言った。
あった。
探していた時間ごと、ちゃんと戻ったのだ。
二百九十が三百二十を見た。
「忘れ物センター、どうだった?」
三百二十は少し考えた。
「思っていたより大きかったです」
「よく言われる」
「それと」
三百二十は動く棚を見た。
透明な箱の中で、古い切符が眠っている。
別の箱では、未来の鍵が静かに光っている。
「ここは、物の迷子案内所みたいでした」
二百九十は目を丸くした。
それから、うれしそうに笑った。
「いいね、それ」
十八も小さくうなずいた。
「悪くない」
帰り際、三百二十はもう一度だけ保管区画を見た。
そこにはたくさんの忘れ物があった。
まだ持ち主が見つからない物。
持ち主の時代がわからない物。
返せない物。
返せる日を待っている物。
その中で、今日ひとつだけ箱が減った。
磁馬のスケッチ帳が、持ち主の鞄へ戻った。
たったそれだけ。
けれど、たったそれだけのために、三人は未来駅を歩き回った。
植物区画へ行き、古書通路へ行き、迷子案内所へ行き、また広場へ戻った。
磁馬と同じ道をたどった。
三百二十は思った。
忘れ物を返すには、持ち主の足取りを少しだけ歩かなければならないのかもしれない。
その人が何を見て、どこで立ち止まり、何を助け、何を見失ったのか。
それをたどって、やっと物は帰る。
時代整理局への扉が開いた。
十八が先に入る。
三百二十も続こうとして、ふと足を止めた。
二百九十が受付から手を振っている。
「また磁馬案件が来たら呼ぶね」
三百二十は苦笑した。
「多そうですね」
「多いよ」
二百九十は即答した。
十八が扉の中から言った。
「覚悟しておけ」
三百二十はうなずいた。
時代整理局の通路へ戻ると、未来駅の音が遠くなった。
代わりに、いつもの静けさがある。
時計の針はまた、進んでいるのか戻っているのかわからない向きをしていた。
三百二十は報告室で筆を取った。
未来の忘れ物センター。
磁馬のスケッチ帳。
未来駅十二番乗換広場。
植物区画。
古書通路。
迷子案内所。
本人返却確認。
そこまで書いて、少し迷った。
そして、最後に一行足した。
忘れ物は、持ち主の時間ごと返す。
書き終えたあと、三百二十はその行を見つめた。
少し大げさかもしれない。
でも、今日見たことには合っている気がした。
十八が後ろを通った。
報告書を見て、記録筒で机を軽く叩いた。
こん、と音がする。
「残せ」
三百二十はうなずいた。
どこかの時代で、また誰かが物を落とす。
どこかの未来で、また忘れ物センターに箱が届く。
そこには札がつき、記録がつき、誰かが持ち主を探す。
そして、たまには磁馬の名前も出る。
三百二十は筆を置いた。
未来駅の広場で、スケッチ帳を抱えた磁馬の顔を思い出す。
あった、と言った声を思い出す。
物が帰る。
それだけで、時代は少しだけ整う。
未来の忘れ物センターでは、今も棚が動いている。
迷子になった物たちが、持ち主のもとへ戻る日を待ちながら。
そして三百二十は、次に磁馬を見かけた時、足元だけではなく、その人が歩いてきた道も見るのだろうと思った。
コメント
1件
ああ、第5話「未来の忘れ物センター」、じっくり読ませてもらいました。 いやあ、もう冒頭の「忘れ物は、ただの物ではない。誰かが落とした時間だった」って一文にやられましたね。そこから施設の広大さ、棚と運搬台の描写で一気に世界に引き込まれる。十八と三百二十の距離感や、二百九十の軽妙なキャラ付けも効いてるなと。 特に良かったのが、磁馬を追いかけるプロセスそのものが「忘れ物を返すために、持ち主の足取りを少しだけ歩く」というテーマを体現していたところ。植物区画→古書通路→迷子案内所とたどるごとに、磁馬が「急いでいるのに周りを見ている」人物像が浮かび上がってきて、最後に「あった」と声を聞いたとき、こちらまでほっとしました。 描きかけのスケッチ帳が未来の迷子を映すという設定も素敵だし、「本人返却確認」という項目を作った二百九十の粋な計らいにじんわり。施設の「物の迷子案内所」という三百二十の一言も、この物語の本質をよく掴んでいたと思います。 磁馬がスケッチ帳を三度確認して「調子がいい」と言われるところ、思わずくすっときましたね。次も楽しみにしてます。