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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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けんかの翌朝、白いポストの二階は奇妙なほど静かだった。イドゥレはいつも通り仕込みに下りたが、階段を下りる足音は来ない。冷蔵庫には名前つきの飲むヨーグルトが二本並び、そのどちらも手つかずだった。
昼前、ラウシャンが「お姉ちゃん、顔怖い」と言い残して引っ込んだあと、イドゥレは気づいた。怒っているというより、落ち着かないのだ。言い過ぎたのかもしれない。だが向こうも刺すように返してきた。帳簿を広げても数字が滑る。焼き菓子の焼き色までいつもより荒く見えた。
夕方になっても、モリネロは戻らなかった。代わりにヴウォデクが顔を出した。元郵便配達員の彼は、昔からこの建物の鍵を任されてきた老人で、無駄なことをほとんど言わない。
「二階、暗いな」
「今日は、少し」
「少しか」
彼はそれ以上聞かず、白いポストの前へ立った。
「昔な、ここには宛先のない手紙がよく入っていた」
イドゥレが顔を上げると、ヴウォデクは投函口をそっと撫でた。
「出せなかった言葉を預ける場所だったんだよ。謝れなかったやつも、帰れなかったやつも、ここへ入れて帰った」
「祖母、そんなことを」
「お前さんの祖母さんは、説明より先に紅茶を出す人だったからな」
ヴウォデクは小さく笑った。
「それと同じで、言えないやつに無理に口を開かせるより、置いていける穴を残してた」
その夜、イドゥレは店に泊まるつもりでいた。二階へ上がる気になれず、一階の帳場に毛布を持ち込む。すると閉店の札をひっくり返した直後、裏口が開いた。モリネロだった。肩に工具袋を下げ、海風の匂いをまとっている。
「戻るんですね」
「戻ります」
「どこへ行っていたんですか」
「叔父の工房跡です」
彼は短く答えたあと、手にした箱を見せた。古びた工具箱だ。
「片づけるつもりだったのに、結局何も捨てられなくて」
その言い方が妙に弱くて、イドゥレは返す言葉を失った。
二人はしばらく離れて座った。やがてイドゥレが冷蔵庫から飲むヨーグルトを二本取り出し、片方をテーブルへ置く。
「名前、書いてありますから」
「ええ」
モリネロは受け取り、蓋を開けた。
「僕、逃げたことを正当化するつもりはありません」
「はい」
「でも戻ってきたのは、叔父が倒れたからだけじゃないです。白いポストが残っていると聞いて、見たかった」
彼は瓶の白い縁を見たまま続ける。
「誰かがまだ、ここで灯りをつけるのか」
イドゥレの胸の奥で、昨日の棘が少しだけ緩んだ。
「私も似たようなものです」
「何がですか」
「祖母がいなくなってから、毎晩ここで帳簿をつけてます。何のためか、途中でわからなくなる日があります。でも、灯りを消す方がもっと怖い」
「怖いんですね」
「怖いです」
その一言を認めるまでに、思ったより時間がかかった。
言葉は謝罪の形をしていなかった。それでも十分だった。二人は同じ瓶を持ったまま、少しずつ沈黙をほどいていく。責めるより先に、自分の孤独の方を机へ置いてみせる。その不器用なやり方が、今の二人にはいちばん合っていた。
帰り際、ヴウォデクが置いていった小箱をイドゥレは開けた。中には祖母の遺品だという小さなスノードームが入っている。白い家と、門の前の小さなポスト。逆さにすると、細かな雪がゆっくり舞った。
「こんなの、あったんですね」
「叔父の工房にも似たものがありました」
モリネロが言う。
「同じ店で買ったのかもしれません」
雪が落ちきるまでの短い時間、二人は黙ってそれを見ていた。
夢みたいにきれいなのに、手の中ではちゃんと重い。孤独というものも、案外そういう形なのかもしれなかった。