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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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融資の最終面談の日、イドゥレは朝から三回も仕込み表を見直した。持っていくのは営業記録、買い出しの控え、二階の住居写真、掃除当番表、修繕内容の一覧、それからラウシャンが勝手に作った「夫婦らしい日常写真集」である。最後の一冊だけは置いていきたかったが、タニアに「むしろ効く」と押し切られた。
ヤヌスは出発前、店の入り口で二人に言った。
「うそを盛るな。足りないところを塗るより、積み上げた日常を見せた方が早い」
「日常が一番見せにくいんですけど」
イドゥレが言うと、ヤヌスは平然と答えた。
「見せにくいものほど本物だ」
面談室では、書類の重みより質問の方が堪えた。朝食はどうしているか。買い出しの担当はどう分けたか。店と住まいの境目で困ることは何か。眠る時間帯がずれて喧嘩にならないか。淡々とした問いなのに、生活をのぞき込まれると急に息苦しい。
「困ることはあります」
イドゥレは正直に言った。
「台所のものが勝手に動くので」
面談官が目を上げる前に、モリネロが続けた。
「最近は声をかけるようにしています」
「最近は?」
「最初に怒られました」
部屋の空気が少しゆるんだ。タニアが横で咳払いをして笑いを誤魔化す。
別の担当者が、食卓写真を見ながら聞いた。
「共同生活で続いていることは」
「夜に帳簿を見る前、店の椅子を全部確かめます」
モリネロが答えた。
「僕が見落としたところを、彼女が翌朝拾います」
「拾います」
イドゥレも頷く。
「あと、飲むヨーグルトの在庫管理」
一瞬の沈黙のあと、担当者が吹き出した。イドゥレは顔をしかめたが、隣ではモリネロもわずかに口元をゆるめている。
最後に、面談官は二階の住居写真を指でなぞった。写っているのは、小さな食卓と、窓辺の観葉植物と、階段脇の工具袋。暮らしとしてはまだ仮の形だ。それでも担当者はしばらく写真を見てから言った。
「片方だけの部屋に見えませんね」
その一言で、イドゥレは不意に息を止めた。見せるために整えたつもりだったのに、いつの間にか本当に二人分の生活が染みていたのだと、他人の目で初めて知らされた気がした。
面談は予想より長引いた。終わって外へ出ると、ちょうど雨が落ちてくる。二人は役所の向かいの古い洋品店の軒下へ駆け込んだ。海から吹く風で雨脚が斜めになる。遠くで雷が鳴り、商店街の旗がばたばたと騒いだ。
「傘、一本しかないですね」
イドゥレが言うと、モリネロは通りの先を見た。
「路地の裏から回れば濡れにくいです」
「でも魚屋の前、水たまりが深い」
「じゃあ本通りで」
「パン屋の前は滑ります」
そこまで言って、二人は同時に黙った。どちらも声に出す前から、相手がどこを思い浮かべたかわかっている。
目と目が合えば、次の行動が自然に決まる。夫婦らしさを練習していた頃より、よほど息が合っていた。
店へ戻るころには小降りになっていた。待っていたタニアが封筒を振る。
「仮承認、通った!」
ラウシャンとサムソが歓声を上げる。イドゥレはその場で膝が抜けそうになり、カウンターへ手をついた。モリネロは一歩遅れて封筒を受け取り、中の紙を読む。
そこには確かに仮承認の文字があった。だが下の一文で、二人の笑みは同時に薄れる。
『婚姻関係および共同経営の継続に重大な虚偽が判明した場合、承認は即時撤回する』
喜びと緊張が、一枚の紙に並んでいた。
夜、雨上がりの窓を閉めながら、イドゥレは思う。今日の面談で役所に見せたのは、うそではなかった。少なくとも、食卓も掃除も買い出しも、本当に積み上がってきたものだ。
それなのに「虚偽」という文字だけが、やけに冷たく見えた。