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翌日、久世記念病院の理事長室へ向かう。
署名するためではない。橘から、書類は原本のまま持ち帰るよう指示されていた。
義父は、私の前へ厚い封筒を滑らせた。
「産婦人科部門統括理事の就任同意書だ。今日署名すれば、新設準備を正式に進められる」
義母の美和子と遼介も同席している。
義母の顔は、前に会った時とまた印象が違っていた。目尻は不自然なほど吊り上がり、頬にはまだ薄い腫れが残っている。口元の片側だけが動きにくいのか、笑うたびに唇の高さがずれた。
「お義母さん、顔は大丈夫ですか」
「昨日、少し手を入れただけよ。院長夫人が老けて見えたら、病院の印象まで悪くなるでしょう」
数か月前にも、同じ理由で目元の施術を受けたと聞いた。その前は頬、その前は鼻筋だった。
会うたび、義母は気にしている箇所を一つ直し、次に会う時には別の箇所を気にしていた。
「事業計画を、最初から説明してください」
「遼介から聞いているだろう」
「産婦人科を作る予定だと、昨日初めて聞きました」
「結婚した時から、いずれ君に任せるつもりだった」
「私へ伝えずに?」
「久世家へ嫁いだ以上、自然な流れだ」
書類をめくる。
理事就任への同意だけではない。新部門の事業計画、資金調達への協力、金融機関との協議参加。責任の範囲が曖昧な文言が続く。
「経営状況と借入残高は?」
「今は新設計画の話をしている」
「経営責任を負う立場へ入るのに、数字を確認できないんですか」
「家族を疑うのか」
「家族なら、説明なしで署名させてもいいんですか」
義父の顔が険しくなる。
「これだから医者の家系ではない女は。家の内情を外へ見せることへ抵抗がない」
「専門家へ確認するのは当然です」
「弁護士を入れるつもりか」
「既に依頼しています」
溜息が落ちた。
「千紘さん、可愛げがないわね。理事へ迎えてくださるのよ。普通なら喜ぶところでしょう」
「今まで、家柄も派閥も違うと見下していた私を、なぜ急に必要とするんですか」
「遼介の妻だからよ」
「それだけですか」
答えず、義父を見る。
遼介が口を開いた。
「親父の病院を立て直すには、産婦人科が必要なんだ」
「立て直す?」
「言葉の綾だ。収益の柱を増やす」
「経営が悪化しているのね」
「病院経営はどこも厳しい」
「私の経歴を銀行へ提示した?」
遼介の視線が揺れた。
「計画の説明には必要だった」
「私が同意済みだとも?」
「夫婦で進める予定だと話した」
「一度も相談を受けていない」
「今、相談しているだろう」
もう全部決めてしまった後で、最後に私の署名だけを求める。
それを相談と呼ぶなら、私の返事には最初から意味がない。
「今日は署名しません。書類を持ち帰ります」
「家族の書類を外へ持ち出すな」
「私が署名する書類です」
封筒を鞄へ入れると、義父が机を叩いた。
「遼介との離婚話を、仕事へ持ち込むな」
「離婚を考えていなくても署名しません」
「久世家の支援がなくなれば、今の大学病院で働き続けられると思うのか」
「私は久世家の推薦で医師になったわけではありません」
「医局は人脈で動く。世間知らずだな」
その発言も録音されている。
「今の言葉も、弁護士へ共有します」
私は理事長室を出た。
廊下では、事務長が待っていた。
「せっかくですから、新設予定の区画をご覧になりますか」
「私の就任が決まっている前提ですか」
「理事長から、そのように」
断ろうとしたが、既に私の名前で何が進められているのか確認するため、案内を受けた。
旧病棟の一角には、工事前の仮囲いがある。
『久世千紘医師監修・女性と子どものための周産期センター』
完成予想図の下へ、私の顔写真まで配置されていた。大学病院の広報頁から転用された写真だ。
「これは、公開されていますか」
「院内の理事会資料だけです。銀行にも、同じデザインの説明資料を提出しています」
「私の許可は取っていません」
「ご主人から、ご家族で合意済みだと」
事務長の顔が青ざめる。
予定区画には、分娩室二室、新生児室、健診用の診察室が描かれていた。設備の一部は既に発注されている。
「責任者が決まる前に、ここまで?」
「年度内の融資実行へ間に合わせる必要がありました」
「医師、助産師、小児科との連携計画は?」
「高瀬先生が大学から人員を連れてくると聞いています」
「私は、誰にも声を掛けていません」
勝手に使われていたのは、私の名前だけではなかった。
大学病院で築いた人間関係まで、久世家のものとして数えられている。
私が誰に頭を下げ、誰を連れてくるかまで、もう決まったことにされていた。
壁には、採用説明会の日程表が貼られている。講師欄は久世千紘。開催は二週間後。
「これも初めて見ました」
「中止します」
「中止だけでなく、私が承諾していないことを関係者へ訂正してください。参加予定者の個人情報を、私へ渡す必要はありません」
事務長は何度も頭を下げた。
彼も、理事長と後継者夫婦の合意があると信じて動いた職員だ。ここで怒鳴っても、責任の所在は変わらない。
「今日見た資料の一覧と、私の氏名を使った提出先を文書でください。弁護士から正式に請求します」
「分かりました」
予定区画の窓から、救急搬入口が見えた。
患者のために使われるはずの病院で、経営者は私を一人の医師ではなく、融資と人員を引き寄せる看板として配置していた。
腹は立つ。でも、ここで働く職員や患者まで私の敵ではない。
『病院を救え』と言われれば、見捨てる自分が悪いような気持ちになる。だからこそ、その罪悪感に飲まれず、現場の人たちまで巻き込まない方法を選びたかった。
私は仮囲いの写真を撮らず、事務長が作成する正式な記録を待つことにした。自分に都合のいい断片だけを持ち帰らないためだった。
橘の事務所では、医療法人を担当する弁護士と公認会計士が書類を確認した。
「この同意書だけで、直ちに病院の債務を個人で負うわけではありません」
担当弁護士が言う。
「ただし理事として経営判断へ関与すれば、責任を問われる場面はあります。今後、別紙で保証や出資を求められる可能性もある。説明を受けずに署名するべきではありません」
合法的に取得できる登記、公開資料、金融機関へ提出された計画の範囲を確認してもらう。
数日後、説明を受けた。
久世記念病院は、数年前の新棟増築と高額医療機器の導入で大きな借入を抱えていた。患者数は計画を下回り、親族役員への報酬は高いまま。関連会社への業務委託費にも、説明が必要な支出がある。
義母の美容医療費についても、広報や接遇の名目で病院経費へ計上された疑いがあった。
一度や二度ではない。
美容皮膚科の研修費、院長夫人の広報撮影費、接遇改善費、高級化粧品の試用費。名目を変えながら、複数の美容クリニックへの支払いが毎月のように続いている。
目元の手術を受けた翌月には左右差の修正。頬へ注入した数週間後には輪郭の再調整。糸による施術、鼻先の修正、肌治療。前の施術が落ち着く前に、次の予約金が支払われていた。
「年間で、いくら使っているんですか」
「直近一年だけで、関連費用を含めて一千万円を超えています」
息を呑んだ。
「全て、お義母さん本人の希望ですか」
「そこまでは資料から判断できません。ただ、同じ部位の再施術が短期間で繰り返され、予約のキャンセル料まで病院経費へ入っています」
外見を保つための定期的な手入れという範囲ではない。
一つ直しても安心できず、別の欠点を見つけて、また施術を受ける。義母は、既に美容整形を止められなくなっていた。
ただし、どの支出が業務上の費用として認められるかは、監査と税務の専門家が判断する段階だった。
「融資継続の条件として、新しい収益部門と、それを担う医師の確保を求められています」
「その医師が私?」
「はい。先生の資格、論文、大学病院との連携可能性が、計画の中心に記載されています」
資料には、私の経歴が細かく載っていた。
専門医資格、担当症例、論文数。
本人の署名も同意書もないまま、銀行へは就任予定者として提示されている。
「遼介だけでは、計画が通らないんですか」
「少なくとも提出資料は、高瀬先生の参加を前提にしています」
ずっと、医師の家系ではない嫁だと見下してきた。
その嫁の資格と信用がなければ、病院の計画は通らないらしい。
滑稽だと思うより先に、ひどく虚しくなった。
「遼介は、いつからこの計画を知っていましたか」
「後継者会議への参加記録は二年前からあります」
二年前。
私へ、妊娠は専門医を取るまで待とうと言った時期と重なる。
「私が妊娠して休職すれば、計画が遅れる」
「その可能性はあります。ただし、ご主人の動機までは断定できません」
あの時の遼介に、私を思いやる気持ちがまったくなかったとは言い切れない。
でも、私の身体も、妊娠する時期も、知らないところで病院再建の日程へ組み込まれていた。
優しさの中に打算が混ざっていた。その事実だけは消えない。
橘が今後の日程を示した。
「来月、関連病院合同研究会があります。一般の研究発表が終わったあと、理事と金融機関を交えた非公開の事業承継会議が予定されています」
「そこで後継者夫婦として発表するつもり?」
「既に資料が作られています」
招待状には、次期院長候補・久世遼介、その妻で産婦人科部門統括予定・久世千紘と印刷されていた。
私の返事を待つ欄はない。
「医学研究の場で家庭問題を話すのは避けましょう」
「分かっています」
「一般参加者が退室した後の会議で、就任拒否と氏名使用への異議を正式に通知します」
その夜、義父からメッセージが届いた。
『合同研究会には必ず出席しろ。欠席すれば、大学病院にも話を通す』
署名だけでなく、出席まで脅しで得ようとしていた。
白波 灯
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鬼霧宗作
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コメント
1件
うわっ…第19話、読み終わったけど心臓バクバクだよ!!😭💦 千紘さんが冷静に弁護士入れて録音して、ちゃんと戦ってるところが本当にかっこよすぎる…。でも義母の美容整形代が年間1000万超えとかヤバすぎでしょ…それで病院傾いてるの?遼介の「妊娠は専門医取ってから」も、まさか病院再建スケジュールとリンクしてたの…?優しさに打算が混ざってたって気づく瞬間、胸が痛すぎる😢 「署名だけでなく出席まで脅し」って最後のライン、読んでて腹立ったけど千紘さんは絶対負けないと信じてる!!続きめっちゃ気になる〜!!🌸✨