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客人をティアの元へと案内するミィナの表情は、ひどく怯えている。
まるで何日も餌を与えられていない獰猛な肉食獣と同じ檻に入れられているかのようだった。
「どうぞ、お入りくださいませ」
ひどく強張った声でメイドに入室を促された獰猛な肉食獣───もとい、バザロフは案内してくれたミィナに礼を言うこともなく大股で部屋に入る。
そしてソファセットの前で笑みを浮かべるティアの前に立った。
「お久しぶりです、バザロフさま。お越しくださりありがとうございます」
「ああ」
これまで鬼でもへぇこらしそうな程の形相を浮かべていたバザロフは、ここでやっと表情を柔らかいものに変えた。
「倒れたと聞いた時は肝が冷えたが、元気そうで良かった」
バザロフは目尻の皺を深くして、大きな手でくしゃくしゃとティアの頭を撫でた。
ティアがロハン邸にお世話になり始めて、今日で8日目。手厚すぎる看護によって、熱はとっくに下がって、ティアはこれまでにないほど健康だ。
それなのに、まだまだ予断は許さないと言われているし、足の捻挫も完治まであと少しなので、未だに病人扱いのまま。
好きな人の屋敷で過ごす日々は幸せの限りだが、やることがなく暇を持て余しているのも事実だ。
そんな中でのバザロフの来訪はとっても嬉しい。父親の代わりである彼がお見舞いに来てくれたのなら、なおのこと。でも──
「せっかくバザロフさまからご依頼いただいたお仕事だったのに、こんな結果になってしまい、申し訳ありませんでした」
「っ……!?な、何を言っているんだ!」
しゅんと俯くティアの肩を、バザロフは優しくつかんだ。そしてこちらを向けと促すように、ティアの名を呼ぶ。
「無理をさせてしまったのは、儂の責任だ。それに、怪我まで負わせてしまって……本当にすまないことをした」
「いえ、そんなっ」
深々と頭を下げるバザロフに、ティアはオロオロとする。
なにせこの足の怪我は、ティアの一人相撲による負傷だ。誰に責任があるものではないのに、バザロフはなかなか頭を上げてくれない。
こういう時、互いにまごつく時間が過ぎる。けれど、それを止めたのは、堪えきれないといった感じで、下を向いたまま小さく笑ったバザロフだった。
「ふっ、それにしても、随分可愛らしい恰好をしておるな、ティア。部屋に入った時、クマの縫いぐるみのほかに、でっかいビスクドールがいるかと思って驚いたぞ」
「っ……!?」
父親代わりのこの人が朗らかな笑顔に戻ってくれたことは嬉しいけれど、自分の格好に触れられるのは、あまり嬉しくなくて、ティアはちょっとだけ眉間に皺を刻む。
木綿素材の水色のギンガムチェックのワンピースに、頭に乗せられたヘッドドレス。自分で言うのもなんだが、確かに人形みたいだ。
こんな姿になったのは、ミィナとアネッサの手によるもの。
寝間着のままバザロフを迎えようとしたら、「ご主人さま以外の前で寝間着などとんでもない!」と、二人が血相変えて身支度を整えたのだ。
ティアからすれば、グレンシスに寝間着姿を見られる方がよっぽど恥ずかしいが、それを口に出すのはもっと恥ずかしくて、結局この格好になったというわけだ。
とはいえ、年頃の女性らしく、ほんのちょっぴり浮き立つ気持ちもある。
そんな葛藤する気持ちを隠せず、ティアは、ついワンピースの裾を掴んでもじもじとしてしまう。
たったそれだけの仕草で、バザロフに気持ちを汲み取っられてしまったようだ。
「どうやら、ここでの生活は、快適かのようだな」
「はい」
すぐに頷いたけれど、ティアは少し迷ってから再び口を開く。
「……でも、そろそろ戻ります。娼館のことも心配ですし。何より、ここにいると私……身体がなまっちゃいます」
そう。グレンシスの屋敷での生活は、娼館での生活とは正反対だった。
誰よりも早く起きて、ベッドから一向に起きてこない姐さまたちを叩き起こすこともなければ、皿洗いに洗濯にと下働きに追われることもない。
貴族のように、ただ座ってぼーっとしていれば、お茶や食事がもたらされる。
けれど働かざるもの食うべからずの生活を送っていたティアは、どうにもこうにも、慣れることができない。やっぱり自分の居場所はここではないと痛感させられる。
そんなふうに、ずぶずぶと物思いに沈んでいくティアを引き上げるように、バザロフはティアの肩を軽くたたいた。
「娼館の事はマダムローズに任せておけ。今はそんなことは考えなくて良い。それに、これまで休みなく頑張ってきたんだ。自分への褒美だと思って、ゆっくり過ごしなさい」
「……それはなかなか難しいかもです」
そう言って、心の底から溜息を吐くティアにバザロフは苦笑した。
「普段から頑張り過ぎているティアには、居心地悪いかもしれないがな」
そうじゃない。慣れることはできないけれど、居心地が悪くないから、こんなに困っているのだ。
今、バザロフが座っているのは、ベッドのすぐ横にある一人掛けの椅子。グレンシスの固定席でもある。
ここに、グレンシス以外の人間が腰かけているのを目にすると、とても違和感を覚えてしまう。
(とても良くない兆候だ)
ティアは爪を噛みたい衝動に駆られる。
一度でも甘えてしまえば、味をしめて、もっともっとと求めてしまう。これは可能性じゃない。明確に見える未来だ。そしてそうなる未来は、さほど遠くない。
やはり、ここに居るのは間違いだったかもしれない。ティアは、自分を甘やかせてしまったことに、後悔の念を抱く。
そんな憂えた表情を浮かべるティアに、バザロフは何か言いかけた。
けれど、軽く頭を振って、わざと明るい口調で口を開く。
「まぁ、何にせよ元気なティアを目にすることができて良かった。さて、そろそろ行くとしよう」
「もうですか?……あ、ごめんなさい」
わざわざ見舞いに来てくれたのに、責める言い方をするなんて。ティアは、自分の失言に気付いて、両手を口元に当てた。
「ははっ、ティアに引き留められるなら、会議を無視して、もう少しここに居たいんじゃが……悪いな。実は、部下がグレンの屋敷に行くと言ったもんでな。儂もちょっとだけと無理言って付いて来てしまったんだ」
「まぁ、そう……だったんですか。会議は大切な公務でしたのに……」
更に申し訳なさそうにするティアに、バザロフは慌てて首を横に振る。
「すまん、すまん。余計なことを言ってしまったな。悪かった。会議など、くだらない連中の無駄話に過ぎないのだから多少遅れたってかまわん。小うるさい儂が居ない方が、皆もせいせいしているだろう。な?」
バザロフから同意をもとめられても、どんな言葉も墓穴を掘りそうな気がして、ティアは黙ってしまう。
それからしばらくして、ティアは立ち上がると、バザロフの袖を少しだけ引いた。
「バザロフさま。では、せめて玄関まで、お送りさせてください」
「こら、無理をするな。怪我がまだ治っていないだろ……あー、いや、やっぱり送ってもらおう」
「はい」
ティアの小動物のようなつぶらな瞳で訴えられたら、剣鬼と称されたバザロフでも、拒むのは容易なことではなかった。
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