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放課後の廊下は、部活帰りの声が遠ざかるにつれて静けさを取り戻していく。
相談室の扉だけが、薄い光を落としていた。
日下部は机に並べたプリントをまとめ、深く息をついた。
誰かが来る気配がして、扉に目をやると──小さくノックされた。
「……入っても、いい?」
「うん。どうぞ」
入ってきたのは、俯いたまま肩をすぼめた女子だった。
靴音がやけに控えめで、部屋の空気が少しだけ震えたように感じた。
彼女は椅子に座る前に、一度立ち止まり、
深呼吸をしてから、おそるおそる腰を下ろした。
「……なんかさ。
変な相談かもしれないんだけど」
「変じゃないよ」
日下部は、そう言って急がせずに待つ。
「ありがとうって……言えなかった人がいるんだよ」
女子の声はかすれていた。
泣いているわけではないのに、涙の気配だけが漂っている。
「その人、もういないの。
遠くに行ったとかじゃなくて……ほんとに、会えない」
言葉の端が震えた。
「最後に話したとき、普通にバイバイして……
その後すぐ、会えなくなって。
“ありがとう”って、あのとき言えばよかったって……
ずっと思ってる」
彼女は指を強く握りしめる。
冷えた指先が、後悔の深さをそのまま表していた。
日下部はすぐには言葉を挟まない。
沈黙が彼女を追い詰めないように、
ただ、そこにいるという気配だけを届ける。
「なんか……遅すぎるんだよね、全部。
言いたかったこと、気づいたこと、全部。
間に合わなかった」
自嘲にもならない笑いが零れ落ちた。
「その人、いっつも私に優しかったのにさ。
私、ちゃんと言えてなかった。
“ありがとう”って、一回も言ってなくて……
わかってるのに、言わないまま終わっちゃって」
彼女の目が揺れて、光を追いかけるように瞬きを繰り返す。
「言ってたら……何か違ったのかなって思っちゃうんだよ」
そこでようやく、日下部がゆっくり口を開いた。
「言えなかった“ありがとう”ってさ……
消えないよ」
女子が顔を上げる。
「届かないわけじゃないと思う。
言わなかった後悔って、ちゃんと生きてる。
そのぶん強くなるし、深くなる。
誰かに優しくしようって思える力にもなる」
「……でも、それじゃ遅くない?」
「遅い後悔って、いちばん人を変えるよ」
その言葉は、慰めでも肯定でもない。
彼女の傷に触れながらも、押しつぶさない距離を保った声だった。
「それにさ」
日下部は続ける。
「その人、お前が言えなかったことまで責めたりしないだろ」
「……うん。しないと思う」
「だったら、それでいいんじゃない?」
日下部は少しだけ笑った。
「“ありがとう”を言えなかった自分を、ちゃんと覚えていれば。
次に言える場面が来たとき、逃さない。
それで、その人との繋がりは終わらないよ」
女子の目が潤む。
泣こうとしているわけじゃないのに、涙がそこにたまっている。
「……そう、なのかな」
「うん。
後悔は残っていい。
でも、それを持ったまま前に行っていい」
彼女は袖で目元を押さえた。
泣き声は出さず、ただ静かに呼吸を整える。
「……来てよかった」
「それ、言われると嬉しい」
日下部は照れくさそうに、でも誤魔化さずに言う。
「また来ていい?」
彼女が立ち上がりながら呟く。
「もちろん。
“ありがとう”言えなかった分、ここで少しずつ吐き出せばいい」
その言葉に、彼女はかすかに笑った。
相談室の扉が閉まると、静けさがまた戻ってくる。
後悔の重さの分だけ、部屋の空気は温かくなっていた。