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放課後の相談室は、いつものように静かだった。
教室のざわめきも、廊下を駆ける部活生の声も、ここだけ届かない。
柔らかい夕陽がカーテン越しに滲んでいて、日下部はその光の中で机を整えていた。
まだ誰も来ていないはずだった。
だが、扉の向こう側にふと気配が落ちる。
呼吸を潜めるような、触れたら崩れてしまいそうな気配。
「……入っていいぞ」
静かに声をかけると、扉が数センチだけ開き、細い肩がのぞいた。
Rと名乗ったその子の顔は伏せられ、手はポケットの中で固く握られている。
「……あの、少しだけ……」
「座ればいい。話せる範囲で」
Rは椅子に腰を下ろしてもなお、スマホを握ったまま手を震わせていた。
ケースの角が白くなるまで力がこもっている。
「通知が……怖くて。
音が鳴るたびに、胸がぎゅってなって……開けなくなるんです」
日下部は瞬きひとつせず、その言葉の揺れを受け止めた。
責めず、急かさず。
ただRが言葉を継ぎ出すのを待つ。
「なんか……見たくないものが入ってる気がして。
悪口とか……嫌われたとか……全部、そこに並んでる気がして。
でも、見ないのも怖いんです。
“知らないままの自分”が、もっと怖いっていうか……」
Rはうつむいたまま、声を押し出しているようだった。
自分が弱いことを認めたくない、でも限界に近い──そのギリギリの場所。
「通知ってさ、音だけで“責められてる気”になるときあるよな」
日下部が言うと、Rは驚いたように顔を上げた。
否定されると思っていたのかもしれない。
「……あります。
“返さなきゃ”“確認しなきゃ”って。
放置したら嫌われるんじゃないかって……
でも、返す元気もないから、触れなくて」
「で、そのまま溜まっていって、余計に開けられなくなる」
Rは小さく頷く。
日下部は椅子にもたれ、少しだけ目線を柔らかくした。
「人ってな、“嫌われてるかもしれない”って思い始めると、
通知ひとつが“罰”みたいに見えるんだよ。
内容がどうかじゃなくて、鳴った瞬間に自分の悪い未来が頭の中で走る」
Rの喉がひくりと動く。
図星だったのだろう。
「でもな。
通知が怖いときって、実は“相手”じゃなくて、
自分の中の“傷んでる部分”が反応してるだけなんだ」
「傷……?」
「誰かに否定された記憶とか、
“ちゃんとしなきゃ”って言われ続けた習慣とか。
そういうのが溜まってると、
ただのLINEでも“攻撃”に見える。
本当はただの文字なのにな」
Rはゆっくり瞬きをし、スマホを見つめた。
「……これ、文字、なのに。
なんでこんなに……怖いんだろ」
「それだけ、人を気にして生きてきたってことだろ。
悪いことじゃない」
「でも……しんどいです」
「しんどいよ。
だから、いまこうして来たんだろ。
“助けて”って言えたのは、ちゃんと自分を守ってる証拠だ」
その言葉に、Rの表情が少しだけ緩む。
でもまだ涙にはならず、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
日下部は続けた。
「まずはな、通知全部に反応しようとするな。
“今の自分が読めるものだけ読む”でいい。
開けられないときは開けなくていい。
未読が悪いなんて誰も決めちゃいない」
「……ほんとに、いいんですか。
開けられなくても」
「ああ。
“自分を整えてから”でいい。
呼吸をする前に走るやつなんていないだろ」
Rは、胸に積もっていた重さを少しだけ下ろすように、深く息を吸った。
「……ちょっとだけ、楽になりました」
「ちょっとでいい。
全部直さなくていい。
ここは“ちょっと疲れたやつ”が来る場所だから」
Rの指が、スマホからようやく離れた。
握りしめていた跡が手に赤く残っていた。
「また来てもいいですか」
「いつでも来い。
通知より、ここを先に開けりゃいい」
その言葉にRは苦笑し、少しだけ肩を落としたまま立ち上がった。
扉が閉まったあと、相談室には静けさだけが残った。
けれどその静けさは、さっきよりも少しだけ、穏やかだった。