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羽海汐遠
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第10話 悪くないのに悪い
朝の教室は、いつもより少しだけ静かだった。
しんと、というほどではない。
椅子を引く音もある。
窓を開ける音もある。
だれかが消しゴムを落として、拾う音もある。
ただ、その音と音のあいだに、
小さなためらいが混じっていた。
ミチルは扉の前で立ち止まった。
右手の親指で左手のあかぎれをなぞる。
いつもの癖。
少しだけ痛い。
その少しだけの痛みが、教室の中へ入る前の足場みたいだった。
扉を開ける。
数人が見た。
でも、いつものようにすぐ笑いへはつながらない。
見たあと、そのまま自分の机へ視線を戻す子が何人かいた。
それが先に、ミチルを戸惑わせた。
「おはよ」
ヒナの声。
肩の少し上でそろえた髪の毛先が、小さく揺れる。
細い指でノートの角をそろえながら、顔だけをこちらへ向ける。
「……おはよ」
返す。
声はまだ小さい。
けれど、その小ささに、だれもすぐには食いつかなかった。
ユウタが後ろで首元をゆるめる。
サエは机の横でかばんを下ろし、透明な板のキーホルダーを指で押さえる。
リオは窓際で袖を少しまくり、すぐまた戻す。
タクミは前髪を手の甲で払って席へ座る。
ナナカは頬杖をついていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の目だけが、すこし遅れてこちらへ向く。
「今日、変な感じしない?」
サエが言った。
だれに向けたのか分からない声。
でも、教室のいくつかがそれを聞いた。
「なにが」
ユウタが返す。
「わかんないけど」
サエは口元を手で隠した。
笑っているようで、完全には笑っていない。
「なんか静か」
静か。
それを聞いて、ミチルは自分の席へ向かった。
通路は通れるぶんだけあいている。
机と机のあいだの、その幅は昨日までと変わらないはずなのに、
今日だけ少し広く見えた。
座る。
椅子の脚が床をこする。
ふつうの音。
ユウタが少しだけ肩をすくめた。
それだけ。
何も言わない。
何も言われないことが、かえって教室の端を冷たくする。
一時間目の前、プリントが配られた。
前から後ろへ。
手から手へ。
ヒナの細い指がプリントの端を持つ。
ミチルへ渡す。
触れないようにしているのか、していないのか、その中間くらいの距離。
ミチルは受け取る。
そのまま後ろへ渡す。
ユウタが受け取る。
「ありがと」
ふつうの声だった。
ミチルは一瞬、後ろを振り返りそうになる。
でも振り返らない。
振り返れば、それだけでまた理由がつく気がした。
「なに」
サエが、小さく聞く。
「べつに」
ユウタが言う。
べつに。
それだけ。
でも、そのべつには、いつもの軽さがなかった。
投げるような感じではなく、少しだけ置き方に迷ったみたいなべつにだった。
授業が始まる。
教師の声。
板書。
ノートを取る音。
ミチルは前を向いていた。
前を向くしかない、ではなく、
ただ前を向いている。
その感覚が、ほんの少しだけ戻ってきていた。
黒板の字を写す。
ページをめくる。
シャープペンの先が紙をこする。
それだけ。
それだけの時間が、逆に長い。
なにも起きないと、いままで起きていたことの形がうっすら見えてくるからだ。
休み時間、後ろの席の女子が言った。
「ねえ、昨日ってさ」
そのあとで、言葉が止まる。
「なに」
サエが聞く。
「いや、なんか」
「別にミチルが悪いっていうか」
その言い方も、最後までは続かなかった。
ユウタが笑う。
でも、前みたいにすぐ乗らない。
「なにそれ」
「いや、なんか」
「リオのやつ、ちょっとやりすぎじゃなかった?」
教室の空気が、そこでほんの少しだけよれた。
リオが顔を上げる。
あごの少し下で切られた髪の毛先が外へ向く。
片目だけ先に細くなる癖は出ない。
「え」
小さい声。
サエがすぐに笑う。
「でもミチルだし」
それはたしかに、ここしばらくの正解だった。
けれど、後ろの女子は続ける。
「いや、そうなんだけど」
「なんか、昨日は別に」
別に。
その曖昧さが、教室に少しだけひっかかる。
ナナカは頬杖をついたまま、そのやりとりを見ていた。
口元はやわらかい。
でも、まだ何も言わない。
言わないせいで、だれも正しい置き方をつかめないままになる。
「でもさ」
ユウタが椅子にもたれたまま言う。
「ミチルって前からそうだし」
それはいつもの道だ。
前から。
いつも。
そういうやつ。
けれど、後ろの女子は小さく言った。
「そうだけど、昨日のはちょっと」
その「ちょっと」が宙に浮く。
なにがちょっとなのか。
だれがどこまでならよくて、どこからが違うのか。
その線を、この教室はここしばらく考えていなかった。
「じゃあ、どうすればよかったの」
リオが言う。
責める声ではなかった。
ほんとうに、聞いているような声。
「だって、こっちずっとやられてたし」
ずっと。
その言葉が出ると、また過去がこちらへ寄ってくる。
「うん、でも」
後ろの女子は困ったように笑う。
笑い方が弱い。
自分の言葉の置き場所がわからない笑いだった。
「なんか、あれでいいならさ」
「もう何でもありじゃん」
何でもあり。
それは、ここにいるだれも口にしてこなかった形だった。
サエが口元を手で隠した。
丸い目が少しだけ揺れる。
「え、でも」
「ミチル相手だからじゃん」
その言い方は、ずれていない。
むしろ、今の教室にはしっくりくる。
しっくりくるのに、しっくりきりすぎることが急に気持ち悪くなる。
その感じが、だれの顔にも少しずつ出はじめていた。
ミチルは何も言わなかった。
言えなかった、ではなく、
いまここで自分が何か言うと、また全部が元の形へ戻る気がした。
二時間目は数学だった。
教師が式を書く。
数字が並ぶ。
黒板の上のほうだけ、チョークの粉がうっすら残る。
途中で、教師がミチルを当てた。
答えは簡単なものだった。
教科書の例題とほとんど同じ。
ミチルは立って答えた。
声が少しだけ揺れる。
でも間違ってはいない。
「はい、合ってます」
教師が言う。
それだけ。
それなのに、座ったあと、だれも何も言わなかった。
前ならそこで、「その顔」とか「こわ」とか、何かが入った。
今日は入らない。
入らないことで、かえって空気が重くなる。
サエが小さくユウタへ言う。
「……べつに普通じゃん」
ユウタはすぐに返さなかった。
首元を指で引いて、それから言う。
「まあ」
まあ。
その短い一音が、ふつうよりずっと曖昧だった。
ミチルは教科書の端を見つめた。
紙の角。
細い影。
そこに、いままでなかったものがあった。
悪くないのに悪い、みたいな、
言葉にすると崩れそうな変な感触。
昼休み。
弁当箱のふたが開く。
パンの袋が鳴る。
教室のあちこちで食べる音が小さく重なる。
ミチルは弁当を開けた。
卵焼き。
小さい唐揚げ。
炊きたてのごはん。
家の匂い。
ユウタが後ろから言う。
「今日、静かだな」
「うん」
サエが返す。
「なんか変」
「ナナカがあんま言わないからじゃない?」
後ろの女子。
そう言われて、何人かがナナカを見る。
ナナカは頬杖をついたまま、弁当箱のふたに視線を落としていた。
肩より少し下まで落ちる髪が、頬の線に沿って静かにかかる。
「別に」
ナナカが言う。
やわらかい声。
それだけ。
でもその「別に」は、いつもみたいに空気を整えない。
むしろ、整えないことを選んだみたいに、教室に残る。
ヒナが小さく言った。
「ミチルってさ」
「別に、毎回ぜんぶ悪いわけじゃないよね」
その瞬間、教室がしんとなった。
完全な静けさではない。
だれかが箸を置く音がする。
窓の外で部活の声が遠く聞こえる。
でも、教室の中の向きだけが、ぴたりと止まった。
サエが先に口を開く。
「でも、空気悪くするじゃん」
「うん、する」
ユウタも言う。
すぐに。
けれど、さっきまでより少しだけ速すぎる。
速すぎる返し方は、守りに見える。
ヒナは細い指で弁当箱の端をなぞった。
「そうだけど」
「今日とか、別に何もしてなくない?」
何もしてなくない。
その言い方は、強くない。
むしろ弱い。
弱いからこそ、だれもすぐうなずけない。
「でも前からあるし」
リオが言う。
あごの少し下で切られた髪の毛先が、うつむくとほんの少し外へ向く。
「今日だけじゃなくて」
「うん、それはそう」
ヒナ。
「でも、今日のミチルには何もなくない?」
今日のミチル。
そこだけ切り取ると、途端に細くなる。
細くなると、理由が足りなくなる。
サエが笑う。
でも、その笑いに少しだけ乾きがある。
「何もないからって、別によくないでしょ」
「今までのがあるし」
今までのがあるし。
たしかに、その通りでもある。
その通りなのに、今日の教室には少しだけ合わない感じが残る。
ユウタが言う。
「てか、今までで十分じゃん」
後ろの女子が返す。
「十分って、じゃあ今日ミチルが何もしなくても嫌ってこと?」
その問いは軽いのに、変なところへ刺さった。
だれもすぐには答えなかった。
ミチルは弁当のごはんを見ていた。
何か言うべきなのか、言わないほうがいいのか、もう判断しない。
ただ、いま教室のどこかで、
自分を悪いと決めるための道が一瞬だけ細くなっているのを見ていた。
ナナカが、そのとき初めて少しだけ顔を上げた。
「嫌なものは嫌でしょ」
やわらかい声。
強くない。
でも、それだけでいくつかの顔がほどける。
「それに理由いちいちいる?」
理由いちいちいる?
それは投げやりみたいで、
でもこの教室にはちょうどいい置き方だった。
理由が足りないなら、足りないままでいい。
嫌なら嫌でいい。
サエがほっとしたみたいに笑う。
「たしかに」
ユウタもうなずく。
「そういうことだよね」
後ろの女子だけが、少しだけ首をかしげたままだった。
でも、それ以上は言わない。
言えば、自分が逆側へずれるかもしれないから。
ミチルはその流れを見ていた。
あぶないと思った。
何が、ではなく、
いま教室がずれかけていたものを、また元へ戻そうとしている感じがした。
午後の授業で、プリント回収があった。
前から後ろへまわす。
紙の角が少し曲がる。
それだけで、前ならいくつかの言葉が飛んだ。
今日は飛ばない。
飛ばないかわりに、みんながそのことを少しだけ意識している顔をする。
サエが小さく言う。
「なんか逆に変」
ユウタが笑う。
「何期待してんの」
笑い。
でも、短い。
ミチルが椅子を引いたとき、脚が少し鳴った。
それだけ。
だれも何も言わない。
だれも「こわ」と言わない。
でも、言わないことのほうが、
今日の教室にはよく響く。
リオが消しゴムを落とした。
ころん、と転がる。
ミチルの机の近くまで来る。
ミチルは手を伸ばしかけて、止めた。
止める。
いままでの教室なら、その止め方にも理由がついた。
「拾っていいよ」
リオが言った。
その一言に、ミチルは顔を上げた。
リオも少し驚いたような顔をしていた。
自分で言っておいて、その言葉の置き方を確かめているみたいだった。
ミチルは消しゴムを拾った。
細い、ただの消しゴム。
リオへ渡す。
指先が少し触れる。
でも、リオは引かなかった。
それだけ。
それだけなのに、教室の空気がまた少しよれる。
「……ありがと」
リオが言う。
ユウタが鼻で笑った。
でも、その笑いは前より小さい。
サエも口元を隠したけれど、目は笑いきっていない。
「なんか」
後ろの女子が言う。
「今日、ほんと変だね」
変。
その言葉は正しかった。
でも、何がどう変なのか、だれもうまく言えない。
放課後、掃除の時間。
ほうき。
雑巾。
机を下げる音。
窓の外の夕方。
ミチルはほうきを持った。
だれにも当たっていない。
だれもぶつかってこない。
だれも「ちょっと」と笑わない。
それなのに、教室は軽くならない。
むしろ、重さだけが残っている。
「昨日まで、あれで普通だったのにね」
後ろの女子が、小さく言う。
だれに向けたのか分からない声。
「何が」
サエ。
「いや、なんか」
そこで言葉が止まる。
「今日のミチル見てると」
「昨日までのやつ、ちょっと変だった気がする」
その瞬間、サエの丸い目が少しだけ固まる。
ユウタが笑いかけて、やめる。
リオが雑巾をしぼる手を止める。
変だった。
その言葉は、この教室では出にくい。
出してしまうと、昨日までの自分の手まで見えてしまうからだ。
「でも」
サエが急いで言う。
急いだぶんだけ、声が少し上ずる。
「ミチルって、やっぱあるじゃん」
「空気とか」
空気。
便利な言葉だった。
形がないから、どこにでも置ける。
ユウタもすぐ乗る。
「そうそう」
「今日はたまたま何もなかっただけで」
たまたま。
今度はそっちに使われる。
何も起きなかったことまで、偶然にされる。
ヒナが雑巾をたたみながら言う。
「でも、それってさ」
「何もない日まで悪いことになるってこと?」
その問いは静かだった。
細い声。
それでも、教室の真ん中に届く。
だれもすぐには答えない。
ナナカがその沈黙の中で、ようやく立ち上がった。
頬杖をやめたあとも、姿勢は静かだった。
肩より少し下まで落ちる髪が、制服の肩のあたりで止まる。
「別に」
やわらかい声。
「今日、何もしてないからって」
「今までのが消えるわけじゃないでしょ」
それは正しいように聞こえる。
だから、何人かが息をつき直す。
助かったみたいな顔をする。
「そういう話じゃないし」
ナナカは続ける。
「悪くないのに悪い、とかじゃなくて」
「そもそも前から悪いものってあるじゃん」
前から悪いもの。
その言い方はきれいだった。
きれいすぎて、少しだけぞっとする。
ミチルはその言葉を聞いて、胸の奥で何かが静かにずれるのを感じた。
いままでは、理由が後からついてきた。
今日は、その後からつく理由が少し薄かった。
薄かったはずなのに、
いまナナカは、理由を使わずに前から悪いもの、と言った。
それでまた、教室が落ち着きはじめる。
サエがうなずく。
「たしかに」
ユウタも言う。
「そういう感じ」
リオは雑巾を絞りながら、目を伏せたまま言う。
「今日だけじゃないし」
ヒナは何も言わない。
細い指で雑巾の端を整える。
その動きだけが、少し遅い。
タクミが窓際で机を戻していた。
大きな手で机の端を持ち上げる。
一度だけこちらを見る。
それから前髪を手の甲で払う。
やっぱり何も言わない。
でも、その何も言わなさが今日は少しだけ違った。
いつもより、見てしまったあとの黙り方だった。
掃除が終わる。
机が元の位置へ戻る。
黒板の下の床が少し濡れて、灯りを鈍く返す。
ミチルはかばんを持った。
肩にかける。
そのとき、リオが横を通った。
少しだけ肩が近づく。
でも、今日は触れない。
触れないまま通り過ぎる。
それだけで、昨日までの感じが少しだけ浮く。
ミチルは教室を出た。
廊下は明るい。
窓の外では部活の声がする。
ボールの音。
笛。
ただの夕方。
なのに、耳の中には今日の教室のほうが残る。
何もしていないのに悪いままの感じ。
それを、だれもきちんと言葉にしないまま、また元へ戻ろうとする感じ。
階段を下りる。
上履きの先の灰色のこすれが見える。
ひとつ下の段へ足を置く。
またひとつ下へ置く。
そのあいだ、ミチルは思っていた。
今日は、たしかに何もなかった。
それなのに、悪いことになりかけた。
なりかけた、というより、
もう悪いことになっている前提のまま、
あとから足りない理由を探していた。
その探し方が少しだけ雑になった。
その雑さに、だれかが少しだけ気づいた。
でも気づいたことを、最後まで言い切れなかった。
翌朝、教室へ入ると、またいつもの並びがあった。
机。
いす。
窓際の光。
前の列の背中。
サエが笑う。
ユウタが鼻で笑う。
後ろの女子がだれかに声をかける。
リオが袖を少しまくって、すぐ戻す。
ヒナがノートの角をそろえる。
タクミが前髪を払う。
ナナカは頬杖をついていた。
前髪の下の目だけが、少し遅れてこちらへ向く。
「おはよ」
やわらかい声。
ミチルは返さなかった。
返せなかったのではなく、
返したあとに何が足されるのかを、まだ想像してしまうからだ。
「無視?」
だれかが笑うように言う。
そのとき、ヒナが小さく言った。
「別に、今のはまだ」
まだ。
その一語が、また少しだけ空気をよらせる。
サエが振り返る。
「なに」
ヒナは細い指でノートの端を押さえたまま、目を伏せる。
「……なんでもない」
それで終わる。
終わるけれど、終わりきらない。
ナナカが静かに口元をやわらかくした。
「そういう日もあるよね」
その一言で、教室はまた落ち着く。
落ち着くけれど、きれいには戻らない。
昨日見えてしまった細いずれが、まだどこかに残っている。
ミチルは席へ向かった。
通路を歩く。
机の間をすり抜ける。
だれも触れない。
だれも止めない。
だれも大きく笑わない。
それなのに、
悪くないのに悪い、みたいな薄い膜だけが、
今日も教室の中に残っていた。
コメント
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わぁ…このエピソード、めっちゃ胸にきた😭💕 「悪くないのに悪い」ってタイトルがもうズルいよね…。教室の空気の重たさとか、みんなの何気ない仕草の細かい描写がリアルすぎて、読んでるこっちまで息苦しくなったよ。特にヒナが「今日のミチルには何もなくない?」って言ったところ、あの一瞬の静寂が刺さった…😢✨ でも最後にまだ「薄い膜」が残ってる感じが、これからどうなるのか気になりすぎるよ!! 次話も楽しみにしてるね⋆♡