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第11話 通用しない
朝の教室は、雨の前みたいな匂いがしていた。
外は降っていない。
窓の外の空も、まだ崩れていない。
それなのに、机と机のあいだだけが少し湿ったみたいに重い。
ミチルは扉の前で立ち止まった。
右手の親指が左手のあかぎれをなぞる。
浅い痛み。
それが今日の輪郭だった。
扉を開ける。
数人が見た。
見たあと、すぐに見ないふりをする。
その動きは前より静かで、前よりそろっている。
「おはよ」
ヒナの声。
肩の少し上でそろえた髪の毛先が小さくはねる。
「……おはよ」
返す。
返した声が、自分の席へ着くまでの短い通路で少しだけ薄くなる。
ユウタは後ろで首元をゆるめていた。
サエは机に肘をついて、口元を手で隠している。
リオは窓際で袖を少しまくり、また戻す。
タクミは前髪を手の甲で払って席へ深く座る。
ナナカは頬杖をついたまま、窓のほうを見ていた。
それはいつもの朝だった。
違ったのは、担任が少し遅れて入ってきたことと、
そのあとに、見慣れない子が立っていたことだった。
教室の中の空気が、そこで一度だけほどける。
「今日からしばらく一緒に過ごすことになった橋本さんです」
担任の声はやわらかい。
その横で、その子は軽く頭を下げた。
肩に届かない長さの髪。
切った線がそのまま残ったみたいにまっすぐそろっている。
少し短い前髪の下の目は大きくない。
でも、見ているときにぶれない。
制服は新しく、折り目がまだよく残っている。
「橋本マオです」
声は高くも低くもない。
ただ、押さえつける感じも探る感じもなく、すとんと落ちた。
「よろしくお願いします」
それだけだった。
教室のあちこちで、小さな返事やざわめきが起きる。
そのざわめきの中で、ナナカだけが少し遅れて顔を上げた。
前髪の下の目が、マオへ向く。
口元はやわらかいまま。
でも、そのやわらかさの奥で、何かの位置を測るみたいだった。
空いていた席は、ミチルの二つ横だった。
廊下側でも窓側でもない、中ほどの席。
前はヒナ、斜め後ろにサエがいる。
マオは椅子を引き、かばんを机に置いた。
片手で持ったそのかばんは雑にも見えるのに、机の上に置いたノートの角はまっすぐだった。
何を気にしていて、何を気にしていないのか、見ただけでは少しわかりにくい。
一時間目が始まる。
担任の声。
出席。
連絡事項。
新しい子がいるときだけ少し増える説明。
でも説明が終わるころには、教室はもういつもの形へ戻りかけていた。
だれがだれを見ていいか。
どこで笑っていいか。
どの空気に乗ればいいか。
その流れの中へ、新しい席が一つ入る。
休み時間になった。
最初に声をかけたのはヒナだった。
細い指でノートの角をそろえながら、小さく笑う。
「困ったことあったら言ってね」
マオはうなずく。
「うん」
「前の学校どこだったの?」
サエが聞く。
口元を手で隠しながら。
笑っているようで、まだ本気ではない聞き方。
「少し遠いところ」
マオは言った。
「どこ」
「名前言っても多分わかんない」
それで終わる。
終わったのに、妙に失礼な感じはしない。
ただ、そこで区切っただけみたいな話し方だった。
サエが少しだけ笑う。
「そっか」
ユウタも後ろからのぞく。
「部活とかやってた?」
「やってない」
「なんも?」
「なんも」
その短さに、サエがまた笑った。
でも、いつもの笑いにはならない。
笑いの先に引っかかるものがないからだ。
ナナカがそこで、ようやく口を開いた。
「静かだね」
やわらかい声。
マオはナナカを見た。
見て、それだけだった。
笑わない。
うなずかない。
探りもしない。
「そうかも」
「そうかも、なんだ」
ナナカは頬杖をついたまま少しだけ口元をゆるめる。
そのゆるみ方を見たとき、ミチルは胸の奥で小さく身構えた。
あの入り方を、もう何度も見てきたからだ。
けれど、マオはそのゆるみへ乗らない。
「うん」
それだけ。
少しの沈黙。
その沈黙の間に、教室は次の形を待つ。
問い。
確信。
共有。
いつもの三つが来る、その前の小さな揺れ。
ナナカが聞く。
「緊張してる?」
「してない」
「ふうん」
少しだけ、ナナカの目が細くなる。
「じゃあ、そういう顔なんだ」
その言葉が落ちた瞬間、ミチルの肩がわずかにこわばる。
来る、と体が先にわかる。
でも、マオは首をかしげた。
「そういう顔って、どんな顔」
教室の空気が、そこで一度だけ止まった。
ナナカも止まった。
ほんの一拍。
ほんとうに短い時間。
でも、ミチルにははっきり見えた。
いままでなら、ここで相手は慌てる。
違うよとか、別にとか、そういうつもりじゃないとか。
どれでもいい。
返した瞬間に次の形へつながるから。
マオは違った。
聞き返した。
しかも、困っていない顔で。
ナナカが笑う。
口元だけやわらかく。
「なんか、こっち見てるのに遠い感じ」
「へえ」
マオはそれをそのまま受け取った。
否定もしない。
認めもしない。
「それで困る?」
サエが、え、という顔をした。
ユウタが鼻で笑いかけて、少しだけずれる。
ナナカはまだ笑っている。
でも、その笑いの先がうまく置けていない。
「困るっていうか」
ナナカが言う。
「感じ悪く見えるかも」
「だれに」
マオ。
「みんなにじゃない?」
ナナカ。
ここだ。
三つ目。
いつもの、共有の置き場所。
ミチルはその瞬間、自分の指がまたあかぎれを探っているのに気づいた。
けれど、マオは教室を見た。
ゆっくり。
前から後ろへ。
ヒナ。
サエ。
ユウタ。
リオ。
タクミ。
ミチル。
それからまたナナカへ戻る。
「ほんとに?」
静かな声だった。
「今、だれがそう思ってるの」
それは強い言い方ではない。
責めてもいない。
ただ、聞いているだけだった。
なのに、教室の中の空気はその問いの置き方に慣れていなかった。
サエが口元の手をおろした。
ユウタが首元を引く。
ヒナはノートの端を押さえたまま止まる。
リオは袖を少しまくりかけて、また戻す。
ナナカが小さく笑う。
「いや、なんとなくそう見えるって話」
「なんとなくなんだ」
マオはうなずいた。
それで終わり、みたいに。
終わらせてしまう。
そこから次へ転がさない。
ナナカはそこで、ほんの少しだけ頬杖の角度を変えた。
目はまだやわらかい。
でも、そのやわらかさの中に、細い苛立ちみたいなものが混じる。
「そういう返し方するんだ」
マオは答える。
「返し方?」
「人の言い方いちいち拾う感じ」
「だって、今の話そこだったし」
また、止まる。
話がそこだったし。
ただ、そのまま。
言い負かすでもなく、冗談にもせず、そのまま置く。
ミチルは机の上の木目を見た。
これまで何度も、あの順番で固まっていくのを見てきた。
疑い。
確信。
共有。
その流れが、今日は細いところで止まっている。
止まっているのに、崩れてはいない。
そこが妙に不気味だった。
二時間目のあと、移動教室になった。
列を作る。
通路に出る。
いつものように、どこにだれが入るかの小さい流れができる。
マオはそれを知らない顔で、列の途中へ入った。
空いていたところへ自然に立っただけだった。
けれどそこは、ふだんならミチルの前後にだれも近づかない位置だった。
サエが思わず言う。
「そこ、ちょっと」
マオが振り向く。
「なに」
「いや」
「そっち、なんか」
サエは珍しく言葉を選べていなかった。
丸い目だけが、先に困っている。
「そっちだとミチルいるし」
ユウタが助けるみたいに言う。
その助け方が、前より少し荒い。
マオはミチルを見る。
肩口で切りそろえた髪。
力の入った口元。
上履きの先の灰色のこすれ。
それから、またユウタを見る。
「ミチルがいると何」
ユウタが笑う。
でも、答えの形がいつものようには出てこない。
「いや、なんか」
「なんか、って何」
マオは静かだった。
攻めてはいない。
ただ、そのまま続きを聞いている。
列の後ろで、だれかが小さく笑う。
笑いというより、困ったときの息に近い音。
ナナカがそこで口を出す。
「マオって、わかんないかな」
「この教室の感じ」
「わかんない」
マオはすぐに答えた。
「まだ来たばっかだし」
その一言は正しかった。
正しすぎて、そこから先へ運びにくい。
ナナカが少しだけ目を細める。
「じゃあ、見てればわかるよ」
「何を」
「誰がどういう人か」
マオは一拍置いた。
「見て決めるってこと?」
「そういうの普通じゃない?」
ナナカ。
マオはうなずいた。
「普通かも」
「でも、見ただけで決めるの?」
また、空気が止まる。
ミチルはその止まり方に息が詰まる。
止まっている。
たしかに止まっている。
でも、だれもそれを「おかしい」とは言わない。
言えない。
ただ、いつもの先が来ない。
理科室へ向かう階段で、サエが後ろから小さく言った。
「なにあれ」
ユウタが肩をすくめる。
「さあ」
「変なやつじゃない?」
その声が、前のナナカへ届く。
ナナカは振り向かない。
でも、返事をしないところに、いつもとちがう薄さがあった。
昼休み。
教室の中に弁当の匂いとパンの袋の音が混ざる。
マオは購買のパンを二つ机へ置いていた。
片手で袋を開ける。
かばんの中身はきっちりそろっているのに、その手つきだけは少し雑に見える。
サエが横から聞く。
「マオってさ、人のことどう思うタイプ?」
「どういう意味」
「いや、なんか」
「教室入ってすぐ、この人苦手だなとかあるじゃん」
マオはパンの袋を折った。
「あるかも」
「あるんだ」
ユウタが笑う。
「じゃあ、ミチルとか無理でしょ」
教室がそこで少しだけ待つ。
何を言うか、ではなく、
その答えがどちら側へ落ちるかを。
マオはミチルを見た。
見て、それからユウタを見る。
「まだ何もされてないし」
それだけだった。
それだけで、何人かの顔が止まる。
サエが口元を手で隠す。
でも、笑いにはならない。
ユウタが言う。
「いや、でも空気とか」
「空気って、さっきから何」
マオ。
「何って」
サエが困ったみたいに笑う。
「なんかあるじゃん」
「いまのところ、あるって言ってるだけに聞こえる」
その言い方も、強くはなかった。
ただ、そのままの温度だった。
ナナカがそこで、はじめて少しだけ身を起こした。
頬杖を解く。
でも姿勢はまだ崩れない。
「マオってさ」
やわらかい声。
「いちいち面倒くさいね」
それは軽い悪口の形をしていた。
ふつうなら、周りが笑って広げる。
でも今日は笑いが薄い。
笑いの置き場がまだ決まらないからだ。
マオはパンを机へ置いた。
「そうかも」
否定しない。
「でも、わかんないまま合わせるほうが面倒じゃない?」
そこで、教室のどこかから息をのむ音がした。
だれの音かはわからない。
わからないのに、教室全体の音みたいに聞こえた。
ナナカは笑った。
笑っている。
でも、その笑いの奥で、少しだけうまくいっていない感じがした。
「合わせるって何」
「ミチル嫌だよね、って言う流れ」
マオ。
その言葉が出た瞬間、
ミチルの指先から力が抜けた。
抜けたかわりに、背中のあたりが冷たくなる。
だれも、そこまで直接は言わなかった。
ずっと、そういう感じで進んでいたからだ。
そこを、そのままの形で言葉にされると、急に見え方が変わる。
サエが言う。
「いや、流れとかじゃなくて」
ユウタも続く。
「実際そうだし」
マオはすぐに聞く。
「何が」
「だから」
「だからじゃなくて」
ナナカがそこで口を挟んだ。
「ミチルがどういうやつか、まだマオは知らないだけ」
「知らない」
マオはうなずいた。
「だから決めてない」
決めてない。
それは当たり前のようでいて、この教室では当たり前ではなかった。
リオが、小さく言う。
「でも前から色々あったし」
マオが見る。
「あったんだ」
「うん」
「見たの?」
リオが少し止まる。
袖を少しまくり、また戻す。
「私は、うん」
「全部?」
「全部じゃないけど」
「じゃあ、見てない分は誰から聞いたの」
リオは答えない。
答えないで、ナナカを見る。
ナナカはリオを見ない。
ただ、机の上へ指先を置いただけだった。
その静けさの中で、ワルツは崩れないまま止まっていた。
一拍目は出る。
二拍目も出る。
でも、三拍目へ渡した瞬間に、そこへ載らないものが一つある。
そうすると、曲の続きだけが教室の中で迷う。
午後の授業で、教師がグループ作業をさせた。
四人で紙をまとめるだけの、簡単なもの。
マオはミチルと同じ組になった。
ほかにヒナとタクミ。
紙を並べる。
タイトルを書く。
役割を決める。
ヒナが言う。
「マオ、字きれいだね」
「ふつう」
「ふつうよりきれい」
そのやりとりに、小さな笑いがある。
ふつうの笑いだった。
ミチルは紙を押さえた。
タクミが定規を出す。
大きな手で紙の端をそろえる。
だれもミチルへ何も言わない。
その何も言わなさが、前より少しだけ自然になっている。
自然になっているのに、教室全体はまだ固い。
向こうの列で、サエが声をひそめた。
「マオ、ほんと変」
ユウタが返す。
「わかる」
ナナカはそこで、初めて小さく笑った。
口元だけやわらかく。
「なにあいつ変なの」
その言葉は、軽かった。
軽いのに、教室の中で妙によく響いた。
変なの。
それは、今までミチルに使ってきたものとは少し違う。
決めつける言葉のはずなのに、
その中へ不安みたいなものが薄く混ざっている。
サエが笑う。
「それ」
ユウタも笑う。
「ほんとそれだわ」
笑いは起きる。
でも、いつもみたいに広がりきらない。
笑っていいはずなのに、どこまで笑えばいいのかが決まらない。
マオはその声を聞いていたはずだった。
でも振り向かない。
紙の端を指でそろえているだけ。
ヒナが、少しだけ視線を上げる。
タクミも前髪を払う手を止める。
ミチルは紙の上の線を見ていた。
線はまっすぐで、そこへだれかの気分は入ってこない。
授業が終わるころ、教師がグループごとに発表させた。
マオは立って、紙を持つ。
声は高くも低くもない。
ただ、まっすぐ出る。
発表の途中で一度だけ言葉を探した。
ほんの少し。
でも、だれも笑わない。
だれも「また」と言わない。
その沈黙が、教室の中で小さく光るみたいに浮いていた。
なぜ笑わないのか。
いま笑えば、マオもまた別の輪に入るはずなのに。
だれもその最初の一歩を出さない。
出せない。
放課後。
机を戻す。
かばんを持つ。
窓の外は夕方へ傾く。
マオは席でノートをかばんへしまっていた。
片手で雑に見える持ち方をしながら、中身だけはきっちり整える。
その動きが、どこにも迎合していない。
ナナカが近づく。
やわらかい顔のまま。
口元だけ少しゆるめて。
「マオってさ」
「なに」
「この教室、変だと思ってる?」
「うん」
即答だった。
ナナカの目が、そこで初めてほんの少しだけ止まる。
「へえ」
「でも、だいたいそういうところあるし」
「だいたいって」
「人が多いと」
それだけ。
言い切ってしまう。
ナナカのために言い直さない。
笑いに変えない。
曖昧にも薄めない。
「じゃあ、ミチルのことは?」
ナナカが聞く。
まだやわらかい。
まだ諦めていない。
マオはかばんの口を閉じた。
それからナナカを見る。
「まだ知らない」
「でも、みんなこう言ってるけど」
「みんなって何人」
その返しに、サエが吹き出す。
笑いなのか、困った息なのか、もうよくわからない音。
ユウタが言う。
「そういう話じゃなくない?」
マオは少し考えて、それから言う。
「そういう話じゃないなら、何の話?」
だれもすぐに答えない。
ナナカが笑う。
でも、その笑いはもう、前と同じ形ではなかった。
きれいに並べたはずの拍子の上へ、乗らない足が一つある。
それだけで、曲は壊れない。
壊れないまま、先へ進めなくなる。
「もういいや」
ナナカが言った。
その言い方は軽い。
でも、ほんの少しだけ乾いている。
「マオ、ほんと変だね」
「そうかも」
マオ。
それで終わる。
受け流したのではない。
そのまま置いただけ。
それだけで、ナナカの次の一歩が消える。
ミチルはそのやりとりを見ていた。
見ているしかなかった。
けれど、胸の奥のどこかで、初めて知らない形の静けさが生まれていた。
救いではない。
勝ちでもない。
だれかがナナカを言い負かしたわけでもない。
ただ、通用しないものがある。
それだけ。
教室を出るとき、サエが小さく言った。
「まじでなにあれ」
ユウタが返す。
「知らん」
リオは黙っている。
ヒナは細い指でノートの角をそろえたまま、少しだけ窓の外を見た。
タクミは前髪を手の甲で払って、何も言わずに廊下へ出た。
ナナカだけが少し遅れて立った。
頬杖をやめたあとの腕を軽くさすりながら、ひとりごとのみたいに言う。
「なにあいつ変なの」
それは悪口の形をしていた。
でも、その中には、どう扱えばいいかわからないものに触ったときの冷たさが混じっていた。
マオはそれを聞いたのか聞いていないのか、
ふり返らずに廊下へ出ていった。
肩に届かない髪の線。
新しい制服の折り目。
片手で持つかばん。
ぶれない目。
その背中を見て、教室のだれも次の言葉をうまく作れなかった。
ワルツは崩れなかった。
ただ、そこで止まった。
コメント
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もうね、読み終わって放心したわ…💦 第11話、めっちゃ良かったです…!! マオの「まだ知らない」「決めてない」ってスタンスが、この教室の「空気読め」圧にまったく通用しなくて、その冷たくもないし熱くもない温度が逆に異物みたいに光ってた… あの、「ほんとに?」「だれがそう思ってるの?」って返すところ、めっちゃ刺さった🫳💥 ミチルの指先が力抜けたシーン、ここまで積み重ねてきたもの全部裏返された感じがして鳥肌たった…!! まだ最終回の感じしないし、次どうなるかめっちゃ気になる😭🎀
羽海汐遠
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