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第1話:それ、僕が経験します
カフェの奥の席。
午後の日差しがガラス越しに射し込む中、スーツの男が俯いていた。
肩幅は広いが、少し猫背。
四十代前半、髪は手入れの行き届いていない短髪、
濃いめのストライプシャツにしわの寄ったグレースーツ――どこか、時間に取り残された印象。
名前は坂木直人。娘を事故で亡くしてから、表情が固まってしまった男だ。
向かいに座るのは、痩せた長身の男。
深い灰色のロングコートを肩で着こなし、細身の黒いパンツに、傷だらけのブーツ。
手には指なしのグローブ。
顔立ちは中性的で、目は鋭く、瞳の奥に火種のような光が揺れている。
その男――イタカは、口元をかすかに緩めながら、坂木の話を聞いていた。
「……あのとき、ほんの数分、俺が早く帰ってたら。娘を待たせてなければ」
「“もし”は、依頼内容に含まれます。あなたの不在が、事故の引き金になった可能性を含めて。
──私は、その“可能性”を、身体で確かめるのが仕事です」
イタカの声はやわらかく、けれど決して感情的にはならない。
言葉は、刃物のように磨かれた敬語だ。
彼は、カバンから淡いクリーム色のファイルを取り出す。
表紙には細かい金文字――**《S.P代行体験契約書》**とある。
「ご説明いたします。まず、今回は“交通事故再現”というカテゴリに該当します。
娘さんの行動記録、時間帯、服装、体格を参考に、“そのとき彼女が何を見たか”を再現します。
再現パターンは、以下の3通りで進行可能です」
イタカは、丁寧に3枚の図をテーブルに並べた。
1. 坂木が娘の前を歩いていたパターン
2. 娘が一人で渡ったパターン
3. 娘が信号無視で飛び出したと仮定するパターン
坂木は無言で、それらを見つめる。指がかすかに震えている。
「ご安心ください。私の体は事故対応仕様に調整済みです。
小柄な被験者再現も可能ですし、衝突時の衝撃に耐えるトレーニングも施しています」
「……あんた、本当に人間かよ」
「恐怖に慣れているだけです。
痛みは、慣れると“形”が見えるようになります。
今日は骨が折れそう、とか。今日は肋骨がいけるな、とか」
冗談めかした声だが、目が笑っていない。
ただ、ほんの少しだけ――楽しそうだった。
「ここにサインをお願いします」
契約書にはこう記されていた:
依頼者:坂木直人
代行者:イタカ(登録コード:SP-019)
内容:事故体験の再現(対象:坂木鈴)
目的:助かった可能性の有無を検証
報酬:30万円(データ解析・再構成費込み)
結果:映像+ログデータ+イタカによる補足コメント
坂木は迷い、そして震える手でペンをとった。
「……これで、わかるんですか。俺が、あのとき何を失ったのか」
「“あなたが失ったもの”は、記録にはできません。
でも、“あなたが後悔する必要があるのか”は、はっきりできます」
イタカは立ち上がる。
光を受けて、顔の左頬に古い傷跡が浮かんだ。
「では、行ってきます。
痛みは、ちゃんと受け取ってきますので」
翌日、午後3時19分。
イタカは、小学生と同じランドセルを背負い、交差点へと歩いた。
動きは自然で、脚の長さを縮めているような不思議な歩幅。
信号は点滅。トラックの接近。タイミングは正確。
彼は、瞬間、目を細めた。
「……来るなぁ。いい速度。これはたぶん、あばら。か、背中かな」
少しだけ、笑った。
“正しく死ねる予感”が、彼を昂らせる。
ガシャアアアアン――
重たい金属音と衝撃。
彼は投げ出され、地面に転がった。
目を閉じながら、唇の端がゆっくり上がっていた。
「……いい記録が、取れた」
後日、坂木に封筒が届く。
中には、事故の再現映像と、状況分析レポート。
そして、イタカの丁寧な筆跡でこう書かれていた。
> 娘さんは、たしかに迷っていました。
でも、誰のせいでもありません。
あなたがそこにいたら、二人とも巻き込まれていた可能性が高い。
あなたがいなかったことで、助かった誰かがいた。
それを、選んだのは運ではなく――偶然の優しさ、かもしれません。
イタカは次の依頼地へ歩き出す。
右腕には包帯、脇腹に湿布、でもその足取りは軽い。
「死ぬほど痛かった。でも…これ、好きだな」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。