コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第1話:それ、僕が経験します
カフェの奥の席。
午後の日差しがガラス越しに射し込む中、スーツの男が俯いていた。
肩幅は広いが、少し猫背。
四十代前半、髪は手入れの行き届いていない短髪、
濃いめのストライプシャツにしわの寄ったグレースーツ――どこか、時間に取り残された印象。
名前は坂木直人。娘を事故で亡くしてから、表情が固まってしまった男だ。
向かいに座るのは、痩せた長身の男。
深い灰色のロングコートを肩で着こなし、細身の黒いパンツに、傷だらけのブーツ。
手には指なしのグローブ。
顔立ちは中性的で、目は鋭く、瞳の奥に火種のような光が揺れている。
その男――イタカは、口元をかすかに緩めながら、坂木の話を聞いていた。
「……あのとき、ほんの数分、俺が早く帰ってたら。娘を待たせてなければ」
「“もし”は、依頼内容に含まれます。あなたの不在が、事故の引き金になった可能性を含めて。
──私は、その“可能性”を、身体で確かめるのが仕事です」
イタカの声はやわらかく、けれど決して感情的にはならない。
言葉は、刃物のように磨かれた敬語だ。
彼は、カバンから淡いクリーム色のファイルを取り出す。
表紙にはS.P代行体験契約書とある。
「ご説明いたします。まず、今回は“交通事故再現”というカテゴリに該当します。
娘さんの行動記録、時間帯、服装、体格を参考に、“そのとき彼女が何を見たか”を再現します。
再現パターンは、以下の3通りで進行可能です」
イタカは、丁寧に3枚の図をテーブルに並べた。
坂木は無言で、それらを見つめる。指がかすかに震えている。
「ご安心ください。私の体は事故対応仕様に調整済みです。
小柄な被験者再現も可能ですし、衝突時の衝撃に耐えるトレーニングも施しています」
「……あんた、本当に人間かよ」
「恐怖に慣れているだけです。
痛みは、慣れると“形”が見えるようになります。
今日は骨が折れそう、とか。今日は肋骨がいけるな、とか」
冗談めかした声だが、目が笑っていない。
ただ、ほんの少しだけ――楽しそうだった。
「ここにサインをお願いします」
契約書にはこう記されていた:
依頼者:坂木直人
代行者:イタカ(登録コード:SP-019)
内容:事故体験の再現(対象:坂木鈴)
目的:助かった可能性の有無を検証
報酬:30万円(データ解析・再構成費込み)
結果:映像+ログデータ+イタカによる補足コメント
坂木は迷い、そして震える手でペンをとった。
「……これで、わかるんですか。俺が、あのとき何を失ったのか」
「“あなたが失ったもの”は、記録にはできません。
でも、“あなたが後悔する必要があるのか”は、はっきりできます」
イタカは立ち上がる。
光を受けて、顔の左頬に古い傷跡が浮かんだ。
「では、行ってきます。
痛みは、ちゃんと受け取ってきますので」
翌日、午後3時19分。
イタカは、小学生と同じランドセルを背負い、交差点へと歩いた。
動きは自然で、脚の長さを縮めているような不思議な歩幅。
信号は点滅。トラックの接近。タイミングは正確。
彼は、瞬間、目を細めた。
「……来るなぁ。いい速度。これはたぶん、あばら。か、背中かな」
少しだけ、笑った。
“正しく死ねる予感”が、彼を昂らせる。
ガシャアアアアン――
重たい金属音と衝撃。
彼は投げ出され、地面に転がった。
目を閉じながら、唇の端がゆっくり上がっていた。
「……いい記録が、取れた」
後日、坂木に封筒が届く。
中には、事故の再現映像と、状況分析レポート。
そして、イタカの丁寧な筆跡でこう書かれていた。
娘さんは、たしかに迷っていました。
でも、誰のせいでもありません。
あなたがそこにいたら、二人とも巻き込まれていた可能性が高い。
あなたがいなかったことで、助かった誰かがいた。
それを、選んだのは運ではなく――偶然の優しさ、かもしれません。
イタカは次の依頼地へ歩き出す。
右腕には包帯、脇腹に湿布、でもその足取りは軽い。
「死ぬほど痛かった。でも…これ、好きだな」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。