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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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契約満了の日の朝、白いポストは妙に整って見えた。床は磨かれ、カップの欠けはなく、帳簿は月末まで見通しが立っている。形式だけなら、離婚しても店は回る。そう思えてしまうくらいには、二人で積み上げたものがあった。
だからこそ、言えなかった。
イドゥレは焼き上がったタルトを冷ましながら、今日が終われば何と呼べばいいのかを考える。共同経営者。元夫。相続人。どれも違う気がするのに、まだそれ以外の名前を口にできない。モリネロもまた、店の椅子を一脚ずつ確かめながら、必要なことしか言わなかった。
昼前、白いポストの投函口が何度も鳴った。最初は一通、次に三通、やがて常連が手に手紙を持って現れる。
「直接じゃ照れるから、こっちに入れるね」
「うちの犬の分も」
「読まなくてもいい、ただ残したくて」
白いポストの中は、あっという間に紙でいっぱいになった。
閉店後、二人は投函口からあふれた手紙をテーブルへ広げた。
『犬を連れて外へ出られるようになった』
『一人で食べる昼が、ここだと怖くなかった』
『亡くなった妻の話を初めてした』
『靴を直してもらった帰り、また歩こうと思えた』
『帰ってきていい場所が町にあると知った』
一枚ずつ読むたび、店が守ってきたものの重さが胸へ落ちてくる。建物だけではない。食事だけでもない。ここには、言えなかった言葉の受け皿があった。
中には、祖母の代を知る筆跡もあった。『若いころ、ここで叱られて助かった』『出せなかった手紙をポストへ入れて帰った日、やっと家に戻れた』。祖母がしていたことを、イドゥレは全部知っていたわけではない。知らない優しさが、店の壁の中にまだ何層も残っている。その上に、自分たちの一年が重なっていた。
イドゥレは途中で読めなくなった。視界が滲む。モリネロは黙って次の手紙を開き、低い声で読んだ。
『白いポストがあると、まだ間に合う気がする』
その一文で、イドゥレの唇が震えた。まだ間に合う。その言葉は、手紙を書いた誰かだけでなく、今の自分たちへも向けられているように思えた。
夕方、モリネロは二階から一枚の封筒を持って下りてきた。役所でもらった離婚届が入っているのだと、見なくてもわかる。
「行くんですか」
聞いた声は、ひどく平らだった。
「提出前に、少し歩きます」
「そうですか」
引き止めたい。けれど契約を破る言葉が見つからない。自分から好きだと言ってしまえば、全部が契約違反みたいに思えてしまう。署名したのは自分なのに、その紙に今さら足を取られている。
モリネロは白いポストの前で一度だけ立ち止まり、それから扉へ向かった。
イドゥレは見送ることしかできない。背中が遠ざかるたび、店の輪郭まで薄くなる気がした。
そのとき、裏で配信準備をしていたハリクレイアが、カメラを下ろした。
「ねえ」
珍しく、声に軽さがない。
「それ、撮れ高とかじゃなくても、今行く場面でしょ」
ラウシャンもサムソも何も言わない。ただ、イドゥレの背中を押す空気だけがある。ヴウォデクが昼に置いていった手紙の束も、タニアがきっちり揃えた売上表も、店じゅうのものが同じ方向を向いているようだった。
イドゥレは祖母のレシピ帳を掴んだ。指が自然に開いた頁に、最後の看板デザートの配合がある。営業後にだけ出した、甘すぎないレモンクリームの皿。
「ラウシャン、オーブン」
「うん」
「サムソ、表の灯りつけて」
「おう!」
「ハリクレイア、今日は配信なし」
「了解」
動き出した瞬間、胸の中の終了の文字が少しだけ崩れた。
まだ出していない。まだ間に合う。白いポストがずっとそうだったように。