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昼すぎ、本堂の裏手に出した机の上へ、札案が何枚も広げられていた。梅の枝先では、ほどけかけた花が風に揺れている。春らしい陽気なのに、啓介と芽生のあいだだけ、空気の温度が合わなかった。
「この一枚、少し整いすぎてます」
芽生が言う。
「整ってるのは悪いことじゃないだろ」
「悪くはないです。でも、ここで聞いた声より先に、きれいさが来てしまう」
「聞いたままじゃ伝わらない時もある」
「伝えるために削りすぎたら、もう別の話です」
啓介は紙を持つ手に力を入れた。
「芽生さんって、正しい言い方を見つけるの、ほんと上手いよな」
「褒めてないですよね」
「今はたぶん、褒めてない」
芽生もすぐには引かなかった。
「啓介さんは、気持ちが乗ってれば届くって思いすぎです」
「思ってない」
「思ってます」
「言い切らないでくれよ」
「曖昧なまま進めるほうが困ります」
そこで啓介の声が少し低くなった。
「正しいことを言えば、それでいいわけじゃないだろ」
「言わなきゃ前に進まないこともあります」
「前に進めば何でも正しいのか」
「止まったまま壊れるよりはましです」
その言葉が、啓介の胸のいちばん痛いところへ当たった。離れのことも、自分のことも、何度も“まだ大丈夫だ”と先送りにしてきたからだ。
しん、と間が空く。
芽生は先に視線を落とし、紙を重ね直そうとした。啓介も謝りたかったのに、喉がうまく動かない。言葉の代わりみたいに足先が動き、古い廊下板の端へ軽く触れてしまった。
こん、と鈍い音がした。
「……今、浮きました」
芽生がしゃがみ込む。
「え」
「ここ」
二人で板の端をそっと持ち上げると、下には埃にまみれた油紙の包みが押し込まれていた。端が潮気で硬くなっている。芽生が息を殺して開くと、中から薄く傷んだ札が一枚すべり出た。
墨はほとんど消えていた。それでも、隅の一文字だけは残っている。
啓介が身を乗り出す。
「また、同じ筆だ」
芽生は札を両手で持ったまま、小さく息をついた。
「喧嘩してる場合じゃなかったですね」
「……ごめん」
「私もです」
謝り方まで噛み合わなくて、二人ともほんの少しだけ苦笑する。
そのあと芽生が、札のにじんだ文字をそっとなぞった。
「まだ、ここで待ってたんですね」
#海辺の町