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#海辺の町
夕方になる前に、昇万が古い帳面を抱えて離れへ戻ってきた。紙魚でも飼っていそうな紙袋から、茶色い表紙の帳面を三冊、どさりと机に置く。
「住職の倉から借りてきた。昔、離れに寝泊まりした人の控えらしい」
「そんなの残ってたんですか」
美恵が驚く。
「残してた人が偉いの。読むのは大変だけどな」
皆で机を囲む。帳面は年代ごとに字の癖が違い、濃い墨の日も薄い墨の日もあった。配給の記録、体調のメモ、泊まった人数。読めるところと読めないところがまだらに混じっている。
芽生が一行ずつ指で追い、啓介は横から紙を押さえた。
「これ、苗字だけの人が多いですね」
「急いで書いたんだろうな」
昇万が答える。
「でも、子どもらしい名前はたまにフルで残してある。呼び間違えないようにしたかったのかも」
その時、海花が一か所で指を止めた。
「ここ」
小さく書かれた女の子の名。周囲の名前より少しだけ丁寧で、余白に朱色の丸が添えてある。
「赤丸?」
莉々夏が身を乗り出す。
「名前の横に」
「ほんとだ……」
啓介は目を細めた。知らない名前だった。けれど、そのすぐそばに記された日付は、沈船の年代と重なっているように見える。
美恵が帳面をのぞき込みながら言う。
「この丸、配給の印かもしれない。特別に渡した物とか」
「でも、これだけだぞ。ほかの子にはない」
昇万が首をひねる。
芽生は帳面の余白を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「りぼん、って読めませんか」
皆が黙る。
名前の横の走り書きは、崩れているが、たしかにそう見えた。朱の丸のそばに、小さな字で「りぼん」と添えられている。
離れの中を、風が抜けた。机の上の紙端がふるえる。
啓介は、沈船の木箱から出た赤いリボンを思い出していた。海から上がったものと、寺に残った帳面が、とうとう同じ場所を指し始めている。
昇万が静かに帳面を閉じる。
「寺に残った名前だ。だったら、まだどこかに続きも残ってるかもしれん」
その言葉のあと、美恵がふと顔を上げた。
「赤丸の意味、ちゃんと知りたい」