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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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祖母の四十九日が明けた朝、イドゥレは旧郵便局の青い扉を両手で押した。潮の匂いを含んだ風が店内を抜け、磨き残したガラス棚の上で細かな埃がきらりと光る。喫茶店「白いポスト」は、祖母が最後まで守った場所だった。レモンタルトの型、古い伝票差し、客が書いた置き手紙をまとめた箱。白く塗り直された店内ポストまで、どれも手を伸ばせば届くところにあるのに、再開だけが遠かった。
カウンターの内側へ回ると、祖母が立っていた位置がわかる。窓から差す朝の光の角度に合わせて、そこだけ床板の色が少し柔らかい。イドゥレは無意識にメモ帳を開き、今日やるべきことを書き出した。保健所の確認、融資相談の書類、市役所の景観継承補助金の申請。書けば動ける。動けば悲しみの形が少しだけ薄くなる。祖母がいなくなってから覚えた癖だった。
ところが、市役所の窓口で思わぬ名前を聞かされた。建物の持分の半分は祖母ではなく、祖母と共同で建物を買った靴職人の側から相続されているという。相続人の名はモリネロ。知らない男だった。
その日の午後、ヤヌスの事務所で初めて会ったモリネロは、椅子に座る前に脚のがたつきを気にして少しだけ位置を直した。黒い作業着の袖口に革の粉がついている。目を合わせないまま、「すみません、床が傾いています」と言った声だけが妙に丁寧だった。
ヤヌスは机の上へ遺言書と登記資料を並べ、二人を交互に見た。
「建物を売らずに残すなら、一階は店、二階は住まい。家族世帯で共同経営。ここが条件です」
「家族世帯って、具体的には」
イドゥレが聞くと、ヤヌスは眼鏡を上げた。
「役所も金融窓口も、赤の他人の共同名義より、生活実態のある共同経営を重く見ます。買い取りの仮申込も入っています。三十日以内に形を示せなければ、かなり厳しい」
「形」
モリネロが低く繰り返した。
「一番早いのは婚姻届です」
ヤヌスが言った瞬間、壁の時計の音だけがやけに大きくなった。
イドゥレはすぐ断るつもりだった。初対面の男と結婚など、祖母でも笑って止めただろう。だが買い取り申込書の写しを見た途端、喉が固まった。白いポストの建物が、番号つきの区画としてだけ扱われている。祖母の焼いたレモンタルトも、窓辺で便箋を折っていた常連の背中も、そこにはひとかけらも映っていなかった。
「一年だけ」
先に口を開いたのはモリネロだった。
「入籍した日から一年だけ。店を立て直して、条件を整えて、それから別れる。そういう紙を作るなら」
彼は感情を押し殺した顔のまま、ヤヌスの方を見た。
「書けますか」
「書けます」
ヤヌスはあっさり答えた。
「かなり細かくもできます」
「細かい方がいいです」
それにはイドゥレも同意した。
その日のうちに契約は妙に現実的なものになった。店の再開を最優先。生活と営業の記録を残す。本気で相手を好きになった場合は黙って抱え込まず協議する。一年後、双方異議なく離婚する。冷蔵庫の私物は勝手に飲まない。寝癖については必要以上に指摘しない。犬用おやつを人間が食べない。条文が増えるほど、恋ではなく手段なのだと確認できて、イドゥレはむしろ落ち着いた。
夕方、役所の窓口で婚姻届を出した帰り、二人は店の前に立った。白い郵便ポストを模した看板箱の横に並ぶと、通りの向こうから小さな犬が吠え、釣具屋の主人が目を丸くした。
「おめでとうございます、と言っていいんですかね」
そう聞かれて、イドゥレは「どうも」としか言えない。モリネロは会釈だけした。祝われる筋合いなのか、まだ自分でも決められなかった。
その夜、ラウシャンから慌てた声の通話が入った。
「ねえ、見た!? もう商店街じゅう知ってる!」
「何を」
「白いポストの前で並んでる写真! ハリクレイアの配信、見て!」
開いた画面には、夕暮れの店先でぎこちなく並ぶ二人の姿と、派手な文字が踊っていた。
『旧郵便局カフェに電撃結婚!? 話題の新婚夫婦を直撃予定!』
イドゥレは無言で画面を閉じた。隣でモリネロが、建付けの悪い扉を一度見上げる。
「……始まり方としては、最悪に近いですね」
「最悪じゃないです」
イドゥレは白いポストを見た。
「まだ店は残ってるから」
そう言い切った声だけが、ようやく自分のものに戻っていた。