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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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同居初日の朝、イドゥレは六時前に起きて台所へ下りた。仕込み表は昨日の夜のうちに壁へ貼ってある。小麦粉、砂糖、バター、レモン、牛乳。配置まで祖母のやり方で揃えた。ところが流し台の前で立ち止まる。塩壺の位置が変わっていた。木べらも、計量カップも、きれいに三センチずつ右へ寄っている。
二階から、ぎ、と床板の鳴る音が続いた。見に行くと、モリネロが食器棚をほんの少しだけずらしていた。
「何してるんですか」
「重量のかかり方が偏ってます」
「朝一番に?」
「昨夜から気になっていて」
彼はそう言うと、棚の脚に薄い革片を挟み込んだ。すると嘘みたいにぐらつきが止まる。見事だったが、イドゥレのこめかみはぴくりと動いた。
「台所のものを動かすときは声をかけてください」
「わかりました」
「本当に?」
「……なるべく」
「なるべくは禁止です」
モリネロは少し考えてから、素直に頷いた。
そこまではまだ良かった。問題は冷蔵庫だった。
イドゥレが楽しみに取っておいた飲むヨーグルトが一本減っている。代わりに、開封済みの瓶が一本だけあった。
「これ、飲みました?」
問われたモリネロは瓶を見て、眉を寄せた。
「いや。僕は朝、水だけです」
「でも開いてます」
「昨日、ラウシャンさんが『お祝いだから』って勝手に一本開けてました」
「それを言うのが遅いです」
「聞かれてないので」
「今、聞きました」
朝の光の中で、あまりに小さい口論が始まった。
結局、ヤヌスへ連絡が行き、昼過ぎには追加条項が一つ増えた。
『冷蔵庫内の私物には必ず名前を記載すること』
紙を見たラウシャンが腹を抱えて笑い、サムソは「新婚ってそういうとこから始まるんだな!」と大声を出し、イドゥレは頭を抱えた。モリネロだけが本気でメモを取り、翌日にはきっちり整ったラベルを用意していた。
しかもその字が妙に几帳面だった。『イドゥレ 牛乳』『モリネロ 発酵バター』『共有 飲むヨーグルト』と、行を揃えて貼られている。ラウシャンは「冷蔵庫が役所みたい」とまた笑い、イドゥレは笑わないつもりでいたのに、瓶の一本へ『共有二本目』と追加されているのを見つけて吹きそうになった。
午後、イドゥレは一階の椅子を掃除していて、モリネロの足元を見た。艶の鈍い革靴。丁寧に磨かれているのに、右のつま先だけ古傷のようにひしゃげている。
「その靴、仕事用には見えませんね」
何気なく言うと、モリネロは少しだけ動きを止めた。
「叔父のです」
「共同出資していた」
「はい。最後まで直しきれなかった靴で」
彼は椅子の裏のねじを確かめながら続けた。
「叔父は、白いポストの建物を買うとき、店がただの店にならないようにしたかったらしいです。靴もそうですけど、使っている人の時間が残るものを……雑に扱うのが嫌な人でした」
それはたぶん、祖母も同じだった。
祖母が磨いたカップの縁、叔父が直しかけた靴のつま先。そのどちらにも、もう会えない人の手つきが残っている。
夜更け、帳簿をつけていたイドゥレは、きい、と小さな金属音を聞いた。店の奥を覗くと、モリネロが壊れた椅子を裏返し、静かに座面を締め直していた。誰に言われたわけでもない。明日の見学客のためでもない。ただ、壊れているから直している。その背中を見た瞬間、初対面の男という輪郭が少しだけ曖昧になった。
「それ、明日でもよくないですか」
声をかけると、モリネロは顔を上げた。
「明日だと、誰かが座ってから壊れるかもしれないので」
「いつも、そうなんですか」
「何がです」
「壊れる前に気づいて、先に直すの」
モリネロはねじ回しを止めた。
「間に合わなかったものが多かったので」
短い返事だったが、その一言に叔父との時間ごと入っている気がした。
イドゥレは返事をしなかった。しなかったが、冷蔵庫に新しく入れた飲むヨーグルトの瓶へ、もう一本ぶんの名前を書き足した。
『共有』
自分でも少し、変な字だと思った。