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この調子なら、俺は近い内メタボになるんじゃないかと思う。
「裕彰さん、起きて。裕彰さーん」
遠い意識の向こうで声が聞こえる。
俺を眠りから戻すには可愛らしすぎるその声は、「もう…!」と怒った口調を最後に遠のいた。
くん
と思ったら、ふいに鼻先を掠めたのはいい香り。
ネギとしょうがの香ばしい香りが胃を刺激して、
ぱち
しまった…と後悔しても遅い。
しっかり開いてしまった目の前には、エプロン姿の亜海が湯気の立てた皿を持ちながらニコニコ勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「よしよし、目覚ましましたねーお利口さんです」
はい起きてねーと、俺の頭をよしよし。
「…俺は犬?」
非難めいた目覚めの第一声をつぶやいたけれど…できたての揚豆腐の香りで目を覚ますなんて、犬そのものじゃないか、俺…。
「ふふふ。おはよう裕彰さん。さぁ、もう朝ごはんはできてるから、はやく顔洗ってキッチンに来てね」
「…うん…」
敗北感を覚えつつのろのろと布団から抜け出す。
完璧に俺を手の上で転がす小柄な勝者は、ラフなスプリングセーターにやわらかなフレアスカート。その上にすこしフリルのついた白いエプロンをまとって完璧な新妻スタイルに身を固めている。
にくらしいくらい、可愛い。
「きゃ…っ」
背を向けたところをちょっと乱暴に抱き寄せて頬にキスした。
不意打ちには不意打ちで。
これで引き分けだ。
「もう…。急にキスするのやめて……」
「だって仕方ないだろ。可愛いだもん」
「……んっ」
いや。
恥じらう可愛さに突き動かされてつい唇も重ねてしまう俺の方が、すでに敗北しているのかもしれない。
なんにせよ。
これで完全に目が覚めた。
「…おはよう。可愛い俺の奥さん」
※
亜海と結婚して一ヶ月が経った。
俺たちはあの最上階の部屋を出て亜海の賃貸から数十メートルしか離れていない部屋に新居を移した。
あの最上階に比べると数段狭い部屋だけれど、ふたりきりで小ぢんまりとした部屋で過ごすのも充分満ち足りたものを感じられて満足している。
現在、俺は新子会社の設立準備で毎日超多忙の最中にいる。
昨日も休日返上で出社して、帰ったのは十時を過ぎていた。
準備はいざ取り掛かってみると想像を絶する大変さだった。けれども、一から俺好みの経営方針、メンバー、業務体系などを整える作業は、プログラム構築なんかよりもリアルで予測がつかない分面白く、残業三昧も気にならないほど毎日が駆け足で過ぎていく。
亜海も、友樹のポストを埋めるように営業課長についた亜依子の元で仕事するのがえらい楽しいから、と営業事務を続けている。
亜依子とは公私ともにつながりが太くなって、今では秘書のような存在でいるらしい。
それはそれでけっこうなことだけど…あまりに「亜依子さん、亜依子さん」と言うものだから、時折「俺と亜依子どっちが大事なんだ」と問い質したくなる…けど悔しいので控えるようにしている。
かといってせっかくの新婚生活を台無しにするのはよろしくない。
だから、せめて休日くらいはふたりきりの生活を満喫しようと約束している。
そういうわけで、日曜日の今日は、買物に行くことにしていた。
結婚式、ハネムーンとバタバタしたため、実は部屋には家具をまだ揃えられていない。前の部屋で使っていたものはそのまま社員たちの休憩室となるあの最上階に置いてきたからだ。(ちなみに、俺があの部屋にすんでいた、というのはみんな知らない)
今日のターゲットは最近できたばかりのショッピングモール。ここに県内初上陸になる家具店が入っていて、オープンセールをしているとのことだった。
※
二駅ほど乗り継いでたどり着いたショッピングモールは、やはりカップルや家族連れで混雑していた。
「うう…ひどいな…」
思わずぼやくと、亜海が手を繋いできた。
「裕彰さん、人ごみ苦手でしょ?はぐれたら大変だから、手つなぎましょうね」
こら、人を子どもみたいに。
でもニコニコ屈託のない笑顔で言うあたり、素で心配してくれているのだろう。はいはい…と薄い笑みを浮かべて握り返した。
それにしても、本当にうんざりするくらいの人ごみだ。
これは本当にはぐれないよう気を付けないと…。
と思いつつ入った家具店は、またものすごく広い場所だった。
こう豊富だと迷ってしまって、ああでもないこうでもないと交わしながら店内を歩き回る。
「あのソファなんか、斬新じゃないか?…んーでもすこしリビングには大きいか…。あ、あれは?…いや、デザインが好きじゃないなー。別のコーナーに行ってみようか、ってあれ?」
けれども、しばらくして
「亜海?」
俺の後をついてきていたはずの亜海が、忽然いなくなっていることに気づいた。