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ティアは頭を下げたまま、じっとその姿勢でいる。今、とても怖くて、顔を上げることができないでいる。
カーテンの隙間から陽の光が差し込み、絨毯に影を作る。窓枠と、二つの人影。
その一つの人影が僅かに動いたと同時に、怒りを滲ませた声が部屋に響いた。
「……ふざけるな」
怒鳴りつけたわけじゃないのに、グレンシスの声はしんとした部屋にやけに大きく響く。
頭を下げたままティアが息を吞んだ瞬間、グレンシスが足音荒くこちらに近づいてきた。
「ふざけるなっ。そんな理由で、俺が諦めるかと思ったのか!?馬鹿にするな!」
───ダンッ!
雷のようなグレンシスの声と重なるように、ティアの顔の真横に衝撃が走った。
ビクリと身を震わせながらティアがそこに視線を移すと、グレンシスの手があった。
逃げるように反対を向けば、すぐさま同じようにされてしまい、ティアは壁に追い詰められてしまった。
「いいか、よく聞け。俺はお前が好きだ。責任感から、こんなことを口にしているわけでもないし、ましてや、気の迷いなんかじゃないっ。お前がどこで生まれ育っても、不思議な術を使う人間でも、そんなもの個性の一つにしか過ぎない。そんな理由で諦められるわけがないだろうっ。だいたい、お前は───」
グレンシスは壁に両手を付き、ティアをそこに抱え入れたまま思いの丈をぶつけていたが、突如としてティアが消えてしまった。
ぎょっとして視線を下に移せば、雨の中、路地裏で震える仔猫のようなティアがいた。
「っす、すまない。また、怖がらせてしまったな」
「……いえ」
嘘である。ティアは、ものすごく怖かった。これまで怒ったり、不機嫌になったグレンシスをたくさん見てきたけれど、それらが全て生温く感じるほど怖かった。
ティアの怯えきった表情は、グレンシスにとって頭に冷水をぶっ掛けられるようなもの。
すぐに冷静さを取り戻したグレンシスは、罪悪感から片手で顔を覆った。
「……本当に悪かった。……俺はどうやら、堪え性のない人間のようだな」
「っ……!」
肩を落とすグレンシスを見て、ティアは唖然とした。
ついさっきまでの、怯えや恐怖が一気に飛散した。
(嘘!? 今頃、気づいたの!?)
てっきり自覚しての行動だと思っていたティアは状況を忘れて、まじまじとグレンシスを見つめてしまう。
「……お前、しっかり顔に出てるぞ」
グレンシスは苦い顔をしながら、ティアの鼻を軽くつまんだ。
あ、バレたかと、ティアは視線をあらぬ方向に泳がし、最終的に少しだけ拗ねた顔になった。
それを機に、部屋の空気が変わる。グレンシスはティアの鼻から手を離すと、ティアの隣に腰を下ろした。
2人とも、壁に背を預けて同じ方向を見る。ティアは、片側に足を流して横座りをして、グレンシスはあぐらを組んで。
さっきまでの息がつまるような空気はもう消えて、今は開館直後のメゾン・プレザンのように、嵐が去った後の静寂がある。
そんな中、最初に口を開いたのは、グレンシスだった。なぜかポケットに手を入れながら。
「ティア、手を貸せ」
「え?は、…はい」
てっきり長椅子に移動するのかと思い、ティアは素直にグレンシスに手を突き出した。
でも、ティアの手のひらに載せられたものは、大きな手ではく別の物だった。
「……これは?」
「やる。王女の耳飾りでも入れておけ」
ティアの手のひらにあるのは、桃色の宝石箱。
見た目も桃のようにころんとした丸い形で可愛らしい。縁には、アジェーリアと最後に乗った馬車と同じような、金のリーフ模様の装飾が施されている。
「気に入ったか?」
「はい。とっても」
ティアは宝石箱をぎゅっと握りしめながら、素直に頷いた。
本当に嬉しかった。アジェーリアから貰った友の証である片方だけの耳飾りは、ティアの宝物だ。
帰路の馬車の中でも、ロハン邸でお世話になっている時でも、何度も鞄から取り出して眺めていた。
(気付いていてくれていたんだ)
ティアは高価な物を贈られたことより、グレンシスの心遣いの方が嬉しかった。
ぐらりとティアの心の天秤が揺らぐ。でもそれは、やっぱり揺らいだだけ。傾くことはなかった。
「グレンさま」
「ん?どうした、ティア」
「ワガママを言わせてください」
ティアはわざと明るい口調で言った。
反対にグレンシスは、ティアが次に何をいうのかわかっているのだろう。死刑宣告を受けたかのように、青ざめた。
けれどティアは、残酷にもサクランボ色の唇を動かす。
「メゾン・プレザンに帰らせてください」
ティアの言葉にグレンシスは切なそうに眉を寄せる。しかし、それは一瞬の間。
「ティア、お前がそれを望むなら、叶えよう」
顔を横に向ければ、今にも泣きそうに微笑むグレンシスがいた。
今まで見た中で、一番胸を締め付けられるほどの綺麗な微笑みだった。
ティアが先日、この屋敷の庭で置いていかれそうになった時、ほんの少しだけでいいから、自分に気持ちを向けて欲しいと願ったことは偽りではない。
振り返ってくれて嬉しかったことも。自分の欠点を指摘されたのに、優しい言葉を掛けてくれて、泣きたくなったことも。
あの時の気持ちは、ちゃんと伝えるべきだ。
「私は一生誰とも結婚をしません。でも一生分の恋をあなたにできて私は幸せでした。ありがとうございます、グレンさま。こんな私を好きになってくれて」
この恋は今日、終わりにする。でも、ここで過ごした日々は、なかったことにはしたくない。
だからティアは、さよならの替わりに「ありがとう」と言った。
宝石箱を膝に置き、グレンシスの手をそっと握りしめる。暖かくて、大きな手。剣だこのある美しい手。この手に触れるのも、触れられるのも、今日で最後。
そう思ったら、ティアは気付けばその手を持ち上げ、指先に唇を押し当てていた。
グレンシスが反対の手でティアの髪に触れ、手櫛で髪を梳き、そのまま自身の胸にティアを引き寄せた。
「……でもなぁ、ティア。俺はそんなワガママ、聞きたくなんかなかったよ」
真っ暗な温もりの中、そんな言葉が耳朶を刺す。
ティアは何も言わなかった。「ありがとう」は、もう言ったし、「ごめんなさい」は絶対に言いたくないから。
同じように、グレンシスも何も言わなかった。無言でティアの頬を手の甲で撫でる。次いでその手は、翡翠色の瞳を覆った。
ティアは、従順に目を閉じる。そうすればどうなるのか知っていて。
「……ティア、好きだ」
吐息混じりにグレンシスはそう囁き、ティアの唇にそっと自分の唇を重ねた。
唇を重ねる直前のグレンシスのその眼差しは、愛しき人を想う哀しさに満ちていた。
ティアがロハン邸に居たのは10日。
長いと思うか、短いと思うかは、人それぞれ。けれど、夢のような時間に終わりを告げたことは間違いない。