テラーノベル
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母たちが莉央を連れていったあと、私は遼介とリビングで向かい合った。
録音は始めている。
「莉央とは、いつから?」
「家へ来てからだ」
「『いつもの場所』で会っていたでしょう」
「言葉の勢いで書いただけだ」
「来る前から、部屋を解約したことも退職したことも相談されていた」
「住む場所について話していただけだ」
「私と離婚するつもりだとも話した?」
遼介の目が僅かに動いた。
「夫婦関係がうまくいっていないとは言った」
「いつ?」
「莉央ちゃんが落ち込んでいた時だ」
「私たちは離婚の話を一度もしていなかった」
「俺は考えていた」
「真帆にも同じことを言ったのね」
苛立った息を吐いた。
「君は、何でも言葉どおりに取る」
「嘘をついた側が、言葉どおりに取るなと言うの?」
私は莉央から送られた通知の写真を机へ置いた。
「寝室で関係を持った?」
「誘ったのは莉央ちゃんだ」
「断らなかったのはあなた」
「真帆ちゃんの件で追い詰められていた。君は実家へ帰って、話も聞かなかった」
「だから妹を抱いた?」
「男だって弱る時はある」
「弱るたび、近くの女性と関係を持つの?」
遼介の口元が歪んだ。
「君は昔から、正論で相手を逃げられなくする」
「不倫を認めたくない人にとって、事実は正論に見えるでしょうね」
椅子の背へ深く寄り掛かった。
「君は俺を自分好みに変えた」
「眼鏡も服も、嫌なら断れたでしょう」
「最初は嬉しかった。でも周りから、奥さんの作品だと言われるようになった。俺の魅力まで君が作ったものみたいだった」
「だから、私が選んだ服を着て、ほかの女性へ自分の魅力を確かめた?」
「俺にも、選べる人生があったんだ」
遼介は二浪し、同級生より遅れて医学部へ入った。
学生時代の恋愛経験がないことを、父親や同僚から何度もからかわれたという。
「医者になって、外見も変わって、女性に求められた。普通の男が若い頃に経験したことを、俺はしてこなかった」
「結婚後に取り戻す権利があると思ったの?」
「家庭を壊さない範囲なら」
「真帆を妊娠させ、妹を寝室へ入れて?」
「ここまでになるとは思わなかった」
遼介が悔やんでいるのは、不倫したことではない。
ばれて、面倒なことになった。それだけなのだ。
そんな言い分を聞かされているうちに、胸の奥がどんどん冷えていった。
「真帆の前にも、女性と会っていた?」
「食事だけだ」
「共有カードに、交際アプリの利用料と複数の送金がある」
「俺が稼いだ金だ」
「私の給与も入る共有口座から出てる」
「細かい金額まで管理するのか」
「家計を管理することと、知らない女性へ送金することを一緒にしないで」
視線を逸らした。
「交際アプリを使い始めたのは、いつ?」
「覚えていない」
「明細では、結婚して半年後から」
「友人に勧められて登録しただけだ」
「月額料金を二年近く払い、ホテルの近くで決済している」
「会って食事をした女性はいる。でも、全員と関係を持ったわけじゃない」
「何人なら許されると思ってるの?」
「数の問題にするな」
立ち上がり、冷蔵庫から水を出した。自分の分だけグラスへ注ぐ。
「医局では、結婚してから急に女遊びを覚えたと笑われていた。俺は遅れていたんだ」
「誰に遅れていたの」
「同級生にも、後輩にも。学生時代に恋愛して、失敗して、遊び方を覚える。みんなが普通に通った時期を、俺は受験と父親の顔色だけで終えた」
「その埋め合わせを、妻のいる三十代ですると決めた?」
「君には、若い頃から選べるものがあった」
「私も医学部へ入るため勉強していた。父を亡くし、家事をして、奨学金を返した」
「それでも現役で受かった」
「努力したことまで、あなたへの侮辱になるの?」
水を一口飲み、グラスを強く置いた。
「君の隣にいると、何をしても二番だった。学歴も、論文も、患者からの評価も」
「私は競っていない」
「勝っている人間は、そう言える」
「私がわざと失敗すれば満足した?」
「支えてほしかった」
「支えたよ」
「俺より先へ行かずに、だ」
ようやく分かった。
遼介が欲しかったのは、一緒に並んで歩く妻ではなかった。
自分を引き上げてくれる。でも、引き上げたあとは少し後ろへ下がって、あなたのおかげですと見上げてくれる女。
そんな都合のいい妻に、私はなれなかった。なりたいとも思えない。
「私の仕事を誇りだと言っていたでしょう」
「誇らしかった。最初は」
「私が評価されるたび、誇れなくなった?」
「男として必要とされていない気がした」
「必要とされることと、上に立つことを同じにしていたのね」
答えはなかった。
私が彼の眼鏡を選び、服を選び、努力を認めたことで、自信を取り戻したのだと思っていた。
けれど彼は、その自信を私と対等になるためではなく、私より優位だと確かめられる場所を増やすために使った。
「真帆ちゃんの子は認知する。養育費も払う」
「私とは離婚せずに?」
「子どもと夫婦関係は別だ」
「莉央が妊娠しても?」
「仮定の話をするな」
「避妊していた?」
答えない。
「私との子どもは、専門医を取るまで待とうと言ったね」
「君のキャリアを考えた」
「私が休めば困る理由が、ほかにもあるんでしょう」
「何の話だ」
「久世記念病院の産婦人科計画」
初めて、はっきり顔色を変えた。
「私の経歴書を、お義父さんへ渡した?」
「夫婦なんだから、勤務歴くらい共有しても問題ないだろう」
「論文一覧と担当症例数まで?」
「病院の計画へ必要だった」
「私の同意は?」
「君が断るとは思わなかった」
スマートフォンを操作し、古いメールを探した。
「ほら。結婚前に、将来は地域医療にも関わりたいと言っている」
私が送ったのは、遼介の実家へ入るという意思ではない。大学病院だけで完結せず、地域の妊産婦を支える仕事にも関心があると書いた文章だった。
「この一文を、久世記念病院の責任者になる同意へ変えたの?」
「希望と合っているだろう」
「地域医療へ関わる方法は一つじゃない」
「親父の病院なら、設備も地位も用意できる」
「何を選ぶかは私が決める」
本当に理解できないという顔をした。
「君は、いつも最終的には合理的な方を選ぶ。大学に残るより、自分の科を持てる方がいいに決まってる」
「合理的かどうかも、私の人生で何を大切にするかによって変わる」
「同じ夫婦なのに、どうしてそこまで自分と俺を分けるんだ」
「別の人間だからよ」
夫婦になったからといって、私の人生まで遼介のものになるわけじゃない。
なのに彼は、私の希望を聞き忘れたのではなかった。私が断るなんて、最初から考えてもいなかったのだ。
そのことが、不倫とは別の意味で恐ろしかった。
「親父から聞いたのか」
「銀行へ、私が病院へ入ると説明していた」
「病院を継ぐなら産婦人科が必要なんだ。君が責任者になれば、大学病院との連携も取れる」
「私に一度も説明せず、妊娠する時期まで調整した?」
「夫婦なら協力するのが当然だ」
遼介にとって、女たちは役割で分かれている。
真帆は、自分を必要としてくれる恋人。
莉央は、家で世話をしてくれる女。
金を払って会う相手は、過去の遅れを埋めるための女。
私は、妻であり医師であり、病院を継ぐための信用だった。
「離婚する」
「認めない」
「あなたの許可がなくても、手続きは進められる」
「親父が許さない。病院には君が必要だ」
「私の希望は?」
「今は感情的になっている」
私が自分に従わないと、すぐ『感情的』にされる。
そう言ってしまえば、私の意思を聞かなくて済むからだ。
「俺は、君を愛している」
「愛人には男として必要とされ、妻には医師として働いてもらう。それを愛情と呼ぶの?」
「悪意のある言い方をするな」
「あなたの言葉を並べただけよ」
立ち上がり、スマートフォンを掴んだ。
「今夜は外へ泊まる」
「莉央のところ?」
「誰と会おうが、離婚すると言った君には関係ないだろう」
扉が閉まる。
十分後、莉央から私へ写真が届いた。
ホテルの白いベッドの上に、遼介の腕時計が置かれている。
結婚祝いに、私が贈った時計。
『お義兄さん、私を選んでくれたよ』
写真の端には、遼介が脱いだワイシャツの袖が写っていた。
コメント
1件
いやもう…読んでて息が止まるかと思ったわ。最後の「お義兄さん、私を選んでくれたよ」の莉央からの写真、あれ完全にトドメよ。真帆の冷静な論理で遼介の自己正当化を一つひとつ切り崩していく感じ、めちゃくちゃスッキリするんだけど、同時に胸が痛い。私も「俺より先へ行かずに」って台詞で全部理解したわ。結局、対等なパートナーじゃなくて、自分を引き上げてくれて後ろで支えてくれる都合のいい女が欲しかっただけなんだなって…。久々にガチでいい作品に出会えた気がする。続きめっちゃ気になるわ🔥
白波 灯
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鬼霧宗作
303