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第一湯 富士見の湯
富士山が見える温泉宿。
その言葉だけで、
磁馬は来てしまった。
駅から送迎車に揺られ、
坂道を上がり、
茶畑の横を通り、
宿の玄関に着いたころには、
もう少し眠そうな顔をしていた。
けれど玄関の向こうに富士山が見えた瞬間、
その目だけが静かに起きた。
「いいなあ」
富士山は、
窓の向こうで大きく座っていた。
近すぎない。
遠すぎない。
温泉宿の屋根と、
庭の松と、
湯気の立つ小さな足湯の向こうに、
ゆっくりと立っている。
磁馬は肩掛け鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
「ご到着ですね」
玄関で声がした。
茶色の作務衣を着た女性が立っていた。
髪を後ろでまとめ、手には宿帳を持っている。
「磁馬さんでよろしいですか」
「うん」
「澄香です。お部屋へご案内します」
「富士山、見える?」
澄香は少し笑った。
「見えます。今日は雲も少ないです」
「よかった」
磁馬は本当に安心した顔をした。
廊下は畳の匂いがした。
壁には古い温泉街の写真が並んでいる。
湯気にかすむ坂道。
昔の旅館。
浴衣姿の人たち。
雪の日の露天風呂。
磁馬は何度も足を止めた。
「あとで描いてもいい?」
澄香は振り返った。
「もちろんです。ただ、廊下ではほかの方の通行にお気をつけください」
「うん。かなり気をつける」
澄香は少しだけ目を細めた。
「かなり、なんですね」
「うん」
部屋の窓からも富士山が見えた。
磁馬は荷物を置く前に、
スケッチ帳を取り出しかけた。
澄香が言った。
「まずお茶をどうぞ」
磁馬の手が止まる。
「お茶」
「はい。あとで露天風呂からも富士山が見えます」
「露天風呂」
その言葉で、
磁馬は完全に動きを止めた。
「描ける?」
澄香は少し考えた。
「人がいない時間なら、宿の許可を取っていただければ大丈夫です。湯気と景色だけなら」
「人は描かない」
「それなら、夕方前に貸切の時間があります」
磁馬はうなずいた。
「それにする」
澄香は湯札を渡した。
小さな木の札だった。
磁馬は両手で受け取った。
「大事にします」
「はい。なくすと大変です」
磁馬は真剣な顔で、
湯札を鞄の内側にしまった。
一つ。
二つ。
三つ。
しっかり留める。
それを見ていた澄香が、
少し笑いそうになった。
「確認されるんですね」
「落とすと帰れない」
「帰れない?」
「見つかるまで」
澄香は一瞬だけ驚いた顔をして、
すぐにやわらかくうなずいた。
「では、なくさないようにしましょう」
部屋で飲んだ茶は、
ほんの少し苦くて、
あとから甘かった。
磁馬は窓辺に座り、
富士山を描いた。
山だけではない。
部屋の障子。
茶碗。
窓枠。
湯札をしまった鞄。
遠くの湯けむり。
富士山は、
何かの奥にある時ほど、
よく見える気がした。
昼を過ぎると、
宿の中が少し静かになった。
客は観光へ出ていたり、
昼寝をしていたり、
早めの湯へ向かっていたりする。
磁馬は澄香に案内され、
露天風呂へ向かった。
使うのは、
誰もいない貸切の時間。
湯の近くに腰掛けを置いてもらい、
スケッチ帳を濡れない場所に広げる。
湯気が立っていた。
石の湯船。
揺れる湯面。
木の囲い。
その向こうに富士山。
湯気は富士山を隠し、
また見せる。
一瞬見えて、
すぐ薄くなる。
磁馬はペンを持った。
「これは難しい」
湯気は煙よりも逃げる。
線にすると固い。
描かないと消える。
磁馬は湯気のまわりを描いた。
湯気でぼやける山の輪郭。
濡れた石。
湯面の揺れ。
木の柵に残る水滴。
その時、
外から小さな声が聞こえた。
「富士山、見える?」
脱衣所の外で、
少年が澄香に聞いている声だった。
澄香が答える。
「今は湯気で少し隠れています」
「また隠れた」
少年は不満そうだった。
しばらくして、
澄香が磁馬の方へ顔を出した。
「少しだけ、外から見学してもいいですか。湯には入りません」
磁馬はうなずいた。
「うん」
黄緑のパーカーを着た少年が、
澄香の横から顔を出した。
首から小さなカメラを下げている。
「絵?」
「うん」
「富士山描いてるの?」
「湯気も」
少年は眉を寄せた。
「湯気、邪魔じゃない?」
「邪魔なところがいい」
「変なの」
「よく言われる」
少年は名乗った。
「湊」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
湊はカメラを持ち上げた。
「写真だと、湯気で富士山がぼやける」
「絵でもぼやける」
「じゃあだめじゃん」
「ぼやけた富士山は、ぼやけた時だけ」
湊は少し黙った。
湯気が動いた。
富士山が見える。
すぐ隠れる。
湊はカメラを構えようとして、
間に合わなかった。
「ああ、また」
磁馬はその瞬間を描いた。
見えた富士山。
構えかけた湊。
まだ押されていないカメラ。
湯気の中へ戻る山。
澄香は静かに見ていた。
「湯気は、毎日違います」
「うん」
磁馬はうなずく。
「今日の湯気は、今日だけ」
その時、
磁馬の袖が湯札に触れた。
鞄の内側にしまったはずの湯札が、
少しだけ外へ出ていた。
磁馬が手を伸ばす前に、
湯札は床へ落ちた。
かたん。
木の音。
湯札は濡れた石の上を滑り、
露天風呂の端へ転がった。
磁馬の顔が止まる。
湊がすぐ叫んだ。
「落ちた!」
澄香も動いた。
湯札は石の隙間で止まった。
と思った瞬間、
湯気に隠れて見えなくなった。
磁馬は立ち上がった。
「探す」
澄香が静かに言った。
「足もとが濡れています。ゆっくり」
「うん」
湊もしゃがんだ。
「どこ?」
「石の隙間」
「見えない」
湯気が濃くなる。
富士山も、
石の隙間も、
少しぼやける。
磁馬は膝をつき、
石の間をのぞいた。
ない。
澄香が小さな灯りを持ってきた。
「このあたりですね」
湊はカメラを首から外し、
床に置こうとした。
磁馬がすぐ言った。
「それも落ちる」
湊は慌ててカメラを首に戻した。
「危なかった」
澄香が灯りを低く当てる。
石の隙間に、
湯札の端が見えた。
「ありました」
磁馬は手を伸ばそうとしたが、
届かない。
澄香が細い火ばさみを持ってくる。
「これで」
磁馬は受け取り、
慎重に差し込んだ。
湯札が少し動く。
また奥へ行きそうになる。
湊が息を止める。
「左、左」
磁馬は左へ寄せる。
澄香が灯りを少し動かす。
木の札が手前へ来た。
磁馬は火ばさみでつまみ、
ゆっくり引き出した。
湯札は濡れていた。
でも割れていない。
磁馬は両手で受け取った。
「見つかった」
湊が大きく息を吐いた。
「よかった」
澄香も安心したように笑った。
「お戻りになりましたね」
磁馬は湯札を布で拭いた。
「ありがとう」
「なくさなくてよかったです」
「うん」
湊が言った。
「磁馬さん、ほんとに帰れなくなりそうな顔だった」
「帰らないから」
「見つかるまで?」
「うん」
湊は少し考えて、
まじめな顔でうなずいた。
「それなら、見つかってよかった」
磁馬は湯札を今度こそ鞄の奥へ入れた。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに布で包む。
「かなり大丈夫」
湊が笑った。
「かなり」
露天風呂の絵を再開するころ、
富士山はまた湯気の向こうに隠れていた。
でも、
磁馬は気にしなかった。
見えない山も描く。
湯札を探した石の隙間も描く。
湊のカメラも描く。
澄香の持つ灯りも描く。
湯気が流れる。
紙の中では、
湯気だけが少しずつ動き始めた。
富士山は見えたり、
隠れたりする。
湯面が揺れる。
石が濡れる。
湯札が落ち、
見つかり、
また鞄へ戻る。
湊が絵をのぞき込んだ。
「富士山、出たり消えたりしてる」
「うん」
「写真よりずるい」
「写真もいい」
「でもこれは、待ってるみたい」
磁馬は湊を見た。
「何を?」
「富士山が見える瞬間」
澄香がそっと笑った。
「温泉では、待つのも楽しみです」
磁馬はうなずいた。
「温泉は、待つのが多い」
湯が温まるのを待つ。
湯気が薄くなるのを待つ。
体がほどけるのを待つ。
景色が見えるのを待つ。
磁馬はその待つ時間を描いた。
夕方が近づくと、
富士山の輪郭が少し濃くなった。
露天風呂の湯気はまだ動いている。
でも、
さっきより富士山が見える時間が長い。
湊は何度もカメラを構えた。
撮れたり、
撮れなかったりした。
そのたびに少し笑ったり、
少し悔しがったりした。
磁馬は、
撮れなかった湊も描いた。
澄香は宿の仕事へ戻る時間になった。
「夕食の準備がありますので、そろそろ」
「うん」
磁馬はスケッチ帳を閉じた。
湯札を確認する。
ある。
ペンケース。
ある。
スケッチ帳。
ある。
小銭袋。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
夕食は、
山菜と魚と温かい汁だった。
磁馬はよく食べた。
湊も近くの席にいて、
富士山の写真を家族に見せていた。
湯気でぼやけた写真。
半分だけ見えた写真。
何も見えない写真。
湊は少し恥ずかしそうにしていたが、
最後には笑っていた。
磁馬は食後、
小さな紙を二枚出した。
一枚は澄香へ。
露天風呂の石のそばで、
灯りを持つ姿。
茶色の作務衣。
湯気の向こうの富士山。
もう一枚は湊へ。
カメラを構え、
湯気の晴れる瞬間を待っている姿。
黄緑のパーカー。
首から下がる小さなカメラ。
澄香の絵では、
湯気がほんの少し流れていた。
湊の絵では、
富士山が見えたり隠れたりしていた。
「くれるの?」
湊が聞いた。
「湯札を探してくれたから」
「ほとんど澄香さんが見つけたよ」
「一緒に探した」
湊は絵を大事そうに持った。
澄香は絵を見て、
静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。宿の廊下に飾りたくなりますね」
「飾っていい」
「では、富士山が見える日に」
夜。
磁馬は部屋の窓を開けた。
富士山はもうはっきり見えない。
でも、
そこにあることはわかる。
遠くで、露天風呂の湯気が少しだけ上がっている。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
今日の絵を見る。
富士山が見える温泉宿。
露天風呂。
湯気。
石の隙間。
湯札。
澄香。
湊。
絵の中で、
湯気はまだ揺れていた。
富士山は見えたり、
隠れたりしている。
まるで、
一日中待っていた時間が、
紙の中でまだ続いているようだった。
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
湯札をなくしかけたけれど、
戻ってきた。
富士山は隠れたりしたけれど、
ちゃんとそこにあった。
温泉に入ったあと、
世界は少しやわらかく見える。
磁馬は布団に入り、
そう思った。
窓の外で、
湯気が夜へほどけていく。
鞄の中の絵では、
富士見の湯が、
まだ静かに温まっていた。
於田縫紀
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コメント
1件
ああ、もう、すごくよかったです……🫶 磁馬さんの“待つこと”そのものを描こうとする姿勢に、胸がじんわりしました。「湯気が邪魔なところがいい」って台詞、めちゃくちゃ刺さりました。見えないからこそ描きたくなる、その感覚、すごくわかります。 それに、湯札をなくしかけて、みんなで探すあの場面の緊張と、見つかったときの安堵。一枚の札に込められた“帰るための証”みたいな重みが、静かに伝わってきて。 湊くんの「写真よりずるい」もグッときました。絵には、待つ時間ごと閉じ込められるんですね。 富士見の湯、いつか本当に行ってみたくなりました。