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第二湯 江戸宿の熱湯
江戸の宿の湯は、湯けむりからして強かった。
磁馬は浴場の入口で立ち止まった。
木の戸の向こうから、
湯の音がする。
ちゃぷ。
ざば。
それから、
誰かが息を吸う声。
熱そうだった。
かなり熱そうだった。
磁馬は肩掛け鞄を胸の前で押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
宿の廊下では、
おゆきが桶を運んでいた。
茶色の前掛けをつけ、
髪を後ろでまとめている。
足音は軽いのに、
桶の水はほとんど揺れていない。
「磁馬さん、お湯へ?」
「うん」
「ここの湯、少し熱いですよ」
「少し?」
おゆきは少しだけ目をそらした。
「少しより、もう少し」
磁馬は浴場の戸を見た。
湯けむりが戸のすきまから流れている。
「描いてから入る」
「それなら、のぼせませんね」
「たぶん」
おゆきは笑った。
「たぶんは危ないです」
磁馬は浴場の前の腰掛けに座った。
スケッチ帳を開く。
湯けむり。
木の戸。
濡れた床。
壁にかかった手ぬぐい。
桶を持つおゆき。
線を引く。
湯けむりは、令和の宿とも違う。
こちらの湯けむりは、
木と湯と人の声が混ざっている。
少し荒い。
少し近い。
遠慮なく立ち上がる。
磁馬はその強さを描こうとした。
その時、
浴場の戸が開いた。
中から男が出てきた。
灰色の着物を肩にかけ、
日に焼けた顔をしている。
額には汗が光っていた。
「いい湯だ」
男は満足そうに言った。
磁馬は顔を上げた。
「熱い?」
「熱い」
「入れる?」
「入れるとも」
男は笑った。
「俺は弥七だ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だな」
「よく言われる」
弥七は磁馬のスケッチ帳をのぞいた。
「湯に入る前から描いてるのか」
「うん」
「変わった旅人だ」
「よく言われる」
おゆきが言った。
「弥七さんは熱い湯に強いだけです。無理しないでくださいね」
弥七は胸を張った。
「湯は熱いほうが効く」
廊下の向こうから、
お辰が歩いてきた。
茶色の羽織を着て、
髪をきちんとまとめている。
手には手ぬぐいを持っていた。
「熱けりゃいいってものじゃないよ」
弥七は笑った。
「お辰さんはぬるいのが好きだからな」
「体が驚かない湯がいいんだよ」
お辰は磁馬を見た。
「この人は?」
「磁馬さん。湯を描いてから入るそうです」
おゆきが答えた。
お辰は少し目を丸くし、
それから笑った。
「湯は逃げないけど、湯けむりは逃げるからね」
磁馬はうなずいた。
「うん。逃げる」
お辰はその言葉が気に入ったように、
少しだけ目を細めた。
磁馬は湯けむりを描き続けた。
浴場の戸が開くたび、
湯けむりの形が変わる。
人が入る。
人が出る。
桶の音がする。
湯面が揺れる。
そのたび、
湯けむりは別の顔になる。
しばらくして、
おゆきが言った。
「そろそろ入ってみますか」
磁馬はペンを置いた。
鞄を部屋へ置く。
湯札だけを持つ。
いや、湯札も落とすと困る。
磁馬は湯札を布に包み、
おゆきへ預けた。
「これ、見てて」
おゆきは両手で受け取った。
「はい。なくしません」
磁馬は真剣な顔でうなずいた。
浴場へ入る。
木の床が濡れている。
湯けむりが濃い。
湯船からは、
熱が立ち上がっていた。
磁馬は足先を湯につけた。
すぐに引っ込めた。
「熱い」
弥七が中で笑った。
「まだ足先だろう」
お辰が湯船の端で言った。
「無理するんじゃないよ」
磁馬はもう一度、
そっと足を入れた。
熱い。
じん、とする。
湯が足の形を覚える前に、
磁馬の足が逃げる。
弥七は肩まで浸かっていた。
「ほら、思いきりだ」
お辰がすぐに言う。
「思いきりで入る湯じゃないよ」
磁馬は湯船のへりに座り、
足先だけ入れた。
それでも顔が真剣になる。
「これは、強い湯」
弥七が笑う。
「湯に負けるな」
磁馬は湯けむりを見た。
「負けてもいい」
お辰がふき出した。
「そのほうが長く入れる」
おゆきの声が外から聞こえた。
「水を足しましょうか」
弥七が言う。
「いやいや、このままが」
お辰が言う。
「少し足しな」
磁馬は小さくうなずいた。
「少し」
おゆきが水を足した。
湯が少しだけやわらかくなる。
磁馬はゆっくり湯へ入った。
肩までは無理だった。
胸の下まで。
それでも十分だった。
「熱い」
「入れてるじゃないか」
弥七が笑う。
「入ってるというより、耐えてるね」
お辰が言う。
磁馬は湯けむりの向こうで、
目を細めた。
熱い。
でも、
熱さの中に、
木の匂いと、
遠い旅の疲れがほどける感じがあった。
足から、
膝へ。
腹へ。
肩の手前へ。
体が少しずつ湯を受け入れていく。
「温泉は、話すより先に体が返事する」
磁馬がつぶやいた。
弥七が首をかしげた。
「何だそりゃ」
お辰は少し笑った。
「でも、わかる気がするよ」
風呂から上がると、
磁馬は少しふらついた。
お辰がすぐに手を出した。
「ほら、急に立つから」
「湯が強かった」
弥七は楽しそうに笑った。
「まだまだだな」
おゆきが廊下で待っていた。
手には布に包んだ湯札。
「湯札、あります」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
その瞬間、
手が少し濡れていた。
布包みがするりと滑った。
湯札が床へ落ちる。
かたん。
廊下を転がる。
磁馬の顔が止まった。
湯札は廊下の板のすきま近くまで転がり、
そこで止まった。
おゆきが急いでしゃがむ。
「大丈夫です。見えています」
磁馬もしゃがむ。
しかし、
板のすきまに湯札の端がかかっていた。
少し動けば、
下へ落ちそうだった。
弥七が近づく。
「動くな。揺らすと落ちる」
お辰も膝をついた。
「細いもの、あるかい」
おゆきが髪のかんざしを抜いた。
「これで」
磁馬は息を止めた。
おゆきがかんざしの先を湯札へそっと当てる。
少し動く。
湯札がすきまから離れる。
お辰が手ぬぐいを広げて受ける。
弥七が廊下板を押さえる。
磁馬は動けない。
湯札が、
するりと手ぬぐいの上へ乗った。
「取れた」
おゆきが言った。
磁馬は深く息を吐いた。
「見つかった」
弥七が笑った。
「落ちてすぐ見つかったな」
お辰が湯札を拭いて渡す。
「これで帰れるね」
磁馬はうなずいた。
「ありがとう」
湯札を鞄の奥へしまう。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
湯上がりの広間では、
茶が出された。
磁馬は畳に座り、
湯上がりの体を少し休ませた。
弥七は足を投げ出している。
お辰は茶をゆっくり飲んでいる。
おゆきは盆を持って行き来している。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
「また描くのか」
弥七が言った。
「うん」
「湯上がりくらい休め」
「休んでるから描ける」
お辰は笑った。
「この人は、描くのも休みなんだろうね」
磁馬はペンを持った。
江戸宿の熱湯。
湯けむり。
木の湯船。
足先を引っ込める自分。
笑う弥七。
水を足すおゆき。
見守るお辰。
廊下へ落ちた湯札。
線を重ねる。
絵の中では、
湯けむりだけが少しずつ濃くなったり薄くなったりした。
湯札が落ちる。
転がる。
止まる。
かんざしで寄せられる。
手ぬぐいに乗る。
湯も動く。
熱い湯が水を受けて、
少しだけやわらかくなる。
弥七が絵をのぞき込んだ。
「俺、笑ってるな」
「笑ってた」
「もっと男前に描け」
お辰が笑う。
「十分だよ」
おゆきも近づいた。
「湯けむり、動いて見えます」
「動いてるから」
「絵なのに」
「湯けむりだから」
おゆきは少し考えて、
それで納得したような顔をした。
夜になると、
宿の広間には旅人が集まった。
弥七が道中の話をする。
お辰が別の宿の湯の話をする。
おゆきが茶をつぎ足す。
磁馬は時々うなずきながら、
小さな団子を食べた。
お辰が持っていたものだった。
「湯上がりは甘いものだよ」
「いいの?」
「熱湯と戦った祝いだ」
磁馬は団子を受け取った。
一口食べる。
「うまい」
弥七が笑う。
「湯にも団子にも弱いな」
「強くなくていい」
お辰がうなずいた。
「それでいいんだよ」
磁馬は小さな紙を三枚出した。
弥七には、
熱い湯に平気な顔で浸かる姿。
灰色の着物。
日に焼けた顔。
少し自慢げな目。
お辰には、
手ぬぐいを広げて湯札を受ける姿。
茶色の羽織。
きちんとまとめた髪。
さっぱりした横顔。
おゆきには、
かんざしで湯札を寄せる姿。
茶色の前掛け。
軽い足取り。
真剣な目。
三枚の絵では、
湯けむりがそれぞれ少し違って揺れていた。
弥七は絵を受け取り、
嬉しそうに眺めた。
「悪くない」
お辰は笑った。
「大事にするよ」
おゆきは両手で絵を持ち、
小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
磁馬は広間の隅で、
今日の絵を見た。
江戸宿の熱湯。
熱すぎる湯。
足先で負ける自分。
旅人たちの笑い声。
水を足す音。
湯札を探す廊下。
湯上がりの茶。
絵の中で、
湯はまだ熱そうだった。
湯けむりが立ち、
人が笑い、
磁馬がそっと足を入れて、
また少し引っ込める。
そのたびに、
広間の旅人たちが笑う。
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
夜、布団に入ると、
まだ体がぽかぽかしていた。
熱かった。
かなり熱かった。
でも、
その熱さの中で、
知らない旅人たちと笑った。
磁馬は目を閉じた。
鞄の中の絵では、
江戸宿の湯けむりが、
まだゆっくり立ち上っていた。
熱い湯は、
なかなか冷めない。
今日の笑い声も、
まだ冷めていなかった。
コメント
1件
ああ、このエピソード、本当に温かくて好きだなあ……。湯けむりが「木と湯と人の声が混ざっている」って描写、一瞬でその宿の空気が蘇るみたいだった。磁馬が「強い湯」に負けて足だけ入れて、それでも「負けてもいい」って言うところ、すごく磁馬らしい。弥七とお辰の温度差のあるやり取りも微笑ましいし、湯札ひやっとしたよね……。おゆきがかんざしで救う場面は、本当に気持ちがこもってた。絵を描くことでしか消化できない旅人の視点、すごく好きだな。
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